安倍氏銃撃事件~「家族」や「同族」への幻想

カテゴリー

安倍氏銃撃事件~「家族」や「同族」への幻想
poto:Yo-ichi Nakamura

たけしとヘルパーさん~かぞくにあらず

安倍氏銃撃事件~「家族」や「同族」への幻想

 不遇な状況にあってそれを乗り越えていく人もいるし、それでも生き抜いている人もいる。不遇を呪うよりは、それを乗り越えて行けと言われる。しかし今の社会は、それがかなり困難な時代だと実感している。
その境遇は固定化し、個人の努力ではどうにもならないことも多い。特に教育にこれほどお金がかかるのは問題だと思う。
そして、もてる人と持たない人の格差は、ますます開いている。だから一度転落してしまうとなかなかそこから這い出すことができない。

 社会のセーフティーネットとして、生活保護や給付金、奨学金等がある。しかし、いちいち条件があって使いやすくない。使いたい人たちにとって、すぐにでも何とかしてほしいのにそうしたスピード感には対応できていない。また、ある程度知識がないと給付までには至らない。つまりセーフティーネットとして脆弱なのだ。

 自民党一強の世の中で、なぜここまでセーフティーネットが進まないのか疑問に思っていた。タカ派とハト派があるにせよ、なぜ「個人」の人権や自由を守ることに興味がないのか、本当に不思議だった。

 しかし今度の事件で、腑に落ちた。
日本の有力政治家さんの多くが、「家族」とか「同族」といった属性に強い幻想をいだいているのだ。それは、旧統一教会が主張する「家庭の価値の協調」と同じ世界観なのだろうか。

 生活保護の受給は、福祉事務所が申請者の親族に援助できないかまず打診がある。つまりは「家族でなんとかできなかった場合」に生活保護が支給される。福祉も似たようなことが多い。家族介護が前提となる。
障害者や高齢者といった属性がはっきりしていると援助はいろいろある。
しかし、貧困家庭、低所得者、軽度の疾患者、精神系の疾患者、離職者などに対しての手立ては驚くほど少ない。そして家族でなんとかしろと言わんばかりの対応である。
しかし頼れる家族がいる人ばかりではない。核家族で少子化。家族自体にそんな介護力はない。そうした人たちはひとりで何とかしなければいけない。

 福祉の仕事をしていると、個人に対する支援がなぜもっと円滑にふんだんに出てこないのかと思う。
あーでもない、こーでもないと言わないで、個人に当座の生活費を保証したり、安心できる居場所を提供したり、養育費や教育費、食費などを補助したりと、駆け付けの支援、すぐにつかえる支援がなぜ出てこないのか。
なぜそこを渋るのか。なぜ個人を大切にしないのか。なぜ家族といった単位に括り付けるのか。

こうした議論は必ず、予算がない、財源がないと言われる。しかし、根拠もなく防衛費を2倍にすること(5兆円積み増す)は簡単に通ってしまう。それこそ政治の力だと思う。

この事件は単にカルト集団の脅威を世間に露呈させたのではなく、加害者の様に、もろもろのことに追い込まれて困窮し困り果てている人がかなり多くいる社会であること、そして私たち(社会)が、彼がここまで、家族の犠牲になり、個人として生きることができない、ここに何の助けも見出せず、リベンジすらできない社会にしてしまったことを反省しなければいけない。

さらに言えば、今の政治をつかさどる自民党が個人に対する考え方を根本的に見直し、制度をつくっていかないとこの国はますます衰退するだろう。

とはいえ、政治がダメでも我々は生きていかないといけない。
そのためには、自ら小さなセーフティーネットとコミュニティを自分たちで作っていく。つくれる人が自らアクションを起こし、資源や力をかき集めて提供するだけで社会は随分と変わる。
その中で私がなにができるか。考える2022年8月である。







 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
安倍氏銃撃事件~「家族」や「同族」への幻想
    コメント(0)