かしだしたけし考1

カテゴリー │レッツ




 明日から京都大学にかしだしたけし!
アルス・ノヴァ(レッツの運営する障害者施設)でも、ツワモノばかり6人が出張します!
そして年齢関係なく、新入社員+かたりノヴァ担当者8人がサポートします!
どんな道中になるのやら。
セレナ2台で行くのですが、なにせ、100キロ超えの利用者3名がいるので、パンパン。
なので私は新幹線。
それにしても、脱走するかもしれない利用者や、何処かに走り出してしまう利用者もいて、スタッフはホテルの入口に寝るかとか、内側から鍵がかかるホテルはないのかとか、GPS機能付きスマホを買ってきたりと大あらわです。
いや〜。楽しい。
何をするかわからん面々。どんな旅になるでしょうか。

 そしてエリートと言われている京大生は、重度知的障害者にあったこともないと思います。
障害者がいいとか悪いとか、怖いとか、嫌とか、そういうのも含めて、出会わないとわからない。
今回、わざわざスペシャルな彼らに参戦?してもらうのは、若い学生さんに何かを伝えて欲しいと思うから。
世間で言われているほど彼らはかわいそうではいし、みんなのびのびしていて、自由に生きている。そして、こういう人もいるし、こういう生き方があるんだということを伝えたい。
阻害も差別も、ほとんど「知らない」ことから始まる。

そして、今世界で起こっている戦争の根幹もおなじ。
障害者とか、異国民とか、異教徒ではなくて、たけしくん、こうすけくん、しゅんくん、りょうがくん、ゆうじくん、りょうくん、という個人と接すれば、人はリアルに感じるし交流する。
その体感が必要。
それがいろいろなことを超えていく力になると私は思ってます。


 

かしだしたけし考2

カテゴリー │レッツ




名前のヤバさは別として、重度知的障害の面々が押しかけることに意味がある。
そして4日は、クリストファー大学の阪本先生に頼まれている講義に参加します。
看護学生90名、その他福祉系の学生さん40名の前で、アルス・ノヴァのメンバーがいつもの日常を繰り広げます。
実はここが彼らのすごいところ。
りょうがくんはいつものようにカキカキして、雄叫びを発するだろうし、
ゆうじくんはいつものように揺れるだろうし、
こうすけくんはいつものように短い単語を発しながら動ごきまわるだろうし、
りょうくんは、いつものように寝そべるだろうし、
しゅんちゃんは、いつものようにポータブルで音を聞いているだろうし、
たけしは、いつものように、入れ物をカチャカチャするだろうし、
これをどこでも、何時でもできることが彼らの凄いところだと私は思います。
普通は忖度したり、意識したり、緊張したり、萎縮するものなんだけど。
そうやって、のびのびできるのは、そういった行動をいつも止めていないレッツだからだとは思うけれど、その揺るぎない行動の所以はそれぞれにある。
人の行動はその周りの環境で、正しくも悪くもなリますね。
だからその環境の設定を変えることで多くの人が居やすくなるとも言える。
そんなことを伝えにいってきまーす。



 

2023年 クリスマスに思う

カテゴリー │家族私の自立



 28で結婚して29歳で長女を生んで、33歳でたけしが生れ、30年間、人生の中で一番幸せだった時代だと思う。本当にいろいろあってしんどいこともたくさんあったけれど、家族で過ごしたかけがいのない時間。
クリスマスやお誕生日、お正月に、ご馳走をつくり、プレゼントを買い、友人をお呼びしたり、家族がいたからもてた時間だと思う。

 今は夫は死別し、子どもは自立し、私は一人でクリスマスを過ごしている。もちろん寂しはあるけれど、これでいいのだと思う。
だって時代は変わるわけだし、いつまでも同じ時代が続くわけがない。年相応の過ごし方だと思う。

しあわせの量は人に同等に与えられていると思う。
でも人って欲が深いから、もっと幸せになりたいとか、クリスマスは誰かと過ごしたいとか、お正月は家族に囲まれていたいとか、どこかで刷り込まれたような「しあわせ」が自分にないことに悲観したりする。

 家族がいないとか、寂しい、とか。そういうの一切考えないようになった。
もちろんそれが与えられるのであれば、それはそれで幸せなのだけれど、幸か不幸か、私にはそういう時間はやってこない。
来ないものを追い求めて悲しい気持ちになるよりは、来ないならば来ないなりに、違う楽しみ方を見つければいいのだと思う。

そしてたまたま、自分の時間がたくさんできた。
それを人に会うことで埋める気持ちにもなれない。
一人でいることをかみしめて、時には寂しさも感じながら、味わうことも私の人生なんだろう。

ひとりでいる時間はいろいろなことを振り返るには本当にいい時間だし、思考をめぐらすにもいい。
書いてみたらと言われて、なかなかまとまらなかった本のこともやっと取り掛かれるかもしれない。

年末は掃除もほどほどにして、一人時間を楽しんでみようと思います。
幸せはいつでも自分でつくり出すもんだ。(気の持ちようだね)




 

たけしが骨折した!~母親の性が発動~やばい!

カテゴリー │レッツ家族たけし私の自立



なれない裁縫で手作りしなくたっていいのあるじゃん!とあとから気が着く。



 たけしが右足の付け根あたりを骨折(骨折というより転んで骨が欠けた?)てんかんの発作で後ろに倒れて右足付け根を強打したらしい。
一瞬の出来事だったようだ。
それからさすがに痛いらしく歩けなくなった。
次の日救急車で駆け付けたがうまくレントゲンが撮れず(本当はMRIがいいらしいけどほとんど不可能)、5日目となる月曜日大きな病院の一般外来を受診。ウルトラヘルパー2名が担いで病院内を移動して、何とかレントゲンが撮れた。全治1か月。
これ以上ひどくしないように安静にしてほしいとのこと。(大きな骨にひびが入ったら手術らしい。)
まあさすがに痛いらしく立ち上がらないがしかし、ハイハイしたり、ずったりして動き回る。
たけしは痛覚が弱い。普通の人よりも痛さを感じないから、けがなどいつもひどくなってしまう。今回も今は相当痛いのだろうけれど、ちょっと良くなると動き回るし立ち上がろうとするだろうな。
1か月かあ。大変だ!

最近てんかんの薬を変えている。そのため発作が頻発し転倒が多かった。後ろにゆっくり倒れるタイプで、たびたび尻もちもついていた。しかし、頭を打つことに気をとられていてガード用の鉢巻きつくったりしたけど尻もちはノーマークだった!
早速パンツを改造したり、スケボー用のプロテクターを取り寄せたり。とにかく倒れることは予防できなくても強打しないように対策!
早くやっておけばよかった!!

こういうことがあると、27年前を思い出す。
たけしは生まれた時から口唇口蓋裂があって、1歳半までに3回手術した。口が鼻とつながっているから、おっぱいが吸えない。搾乳して一滴一滴スポイトで口の中に入れていく。本人はおなかすいているのにそんな調子だから大泣き。疲れ果てて寝てしまう。(こっちもへとへと)

だから大きくなれず、体も弱かった。先生からは鼻から胃に直接チューブをつないで栄養を流し込むことを進められた。しかしこのチューブがすぐに抜けてしまう。そして自宅で入れることができない(医療行為らしいし難しい)

それよりも何よりも、すごく不自然に感じた。
生まれたての赤ん坊に障害があるとはいえ、直接胃にチューブで流し込んだ入りしたら口からものが食べられなくなるのではと。だからチューブに頼らないで、何時間もかけて、スポイトで流し込む。
アホみたいな作業だったと今は思うが、しかしあのまま胃に流し込んでいたら、たけしは口からものを食べる感覚を失っていたのではないかと思う。
そんなの母親の感でしかないのだけれど。

 手術は東京の病院で、検査やなんやらで何度も東京に行った。たけしを大きなかごに入れて。夫は丁度店をオープンしたてだったから忙しくて、姉を祖父母に預けて。
道中何度ものぞき込み、口が裂けている赤ん坊を見てキョッとする人たち。おかわいそうにと同情する人たち・・・。あの疎外感というのか、、孤立感というのか。

入院したらしたで完全看護じゃないから、私も100日以上、たけしのベットの横で寝泊まりした。
大部屋は口唇口蓋裂の同じような立場のお母さんたちが大勢いて、みんなで悩みを吐露したり。どんだけ救われることか。
しかし壮は弱くてすぐに感染してしまうので、個室に移った。
そこは隣が集中治療室で毎日のように子供が亡くなっていく。
そして何年も病院に入院している子供を何人も見た。そのお母さんたちとも話ししたけれど、みんな妙に明るくて、そうでもしないとこの状況に耐えられないのだと思った。
そして初めて、こうした現実があることを知った。
そして何があってもこの子を育てていこうと決心したベットサイド。
今思うと一番きつかった時代。若かったからできたとしか言いようがない。


たけしがけがをするとあの時がよみがえってくる。
あの不安で不安でたまらなかった日々がフラッシュバックする。
そして母親モードにスイッチが入るのを感じる。

もう27歳で自立生活をしている青年なのだから、いい加減に忘れてもいいものなのに。
母親の性だよね。

つまり「心配という2文字と「何とかしなくっちゃ」というモードが一気に押し寄せる。
そして誰が迷惑するって、通っていいるアルス・ノヴァやシェアハウスの生活を支えてくれているスタッフたち。

この辺の顛末はまた。
いやはや。
たけしの自立はいかに??

レッツのHP
http://cslets.net




 

たけしのてんかん発作

カテゴリー │家族たけし私の自立




たけしのてんかん発作
たけしは小学校3年、4年からてんかん発作がある。
幸い薬があって、なんとか抑えられていた。
しかしこの薬は血中濃度に左右される。そして何より厄介なのが、空腹時に飲むと吐くこと。
食事にバラツキがあり、多分食べることに興味がないたけし。
興奮してしまったり、体調によって食事をとってくれないことが多々ある。しかし空腹で飲むとこの薬は、腰が立たないほどふらふらになったり、吐いたりする。
食べたくなくても何とか少量でも食べさせることに躍起になる。それでも薬もろとも吐いてしまう。だからと言ってそのあと食べてくれるわけでもなく、結局薬が飲めない。そして睡眠障害もあるたけし。てんかん薬には安定作用もあるから、薬が飲めないことは寝ないことにもつながる。じゃあ昼間にのませればと試した時期もある。しかし安定作用効果が大きいのか眠くなってしまう。学校に通っている頃は午前中眠気が強くて先生もとても苦労していた。だから夜に多くなるのだが、となると食べる量によって吐く。これが悩みの種だった。
本人を見ていてもかわいそうでならない。
吐きたいわけでも調子が悪いわけでもないのに、薬を飲むともうろうとして吐いてしまうという日が頻繁にある。
なんて怖い薬だろう。
なんども辞めさせたいと思ったことがあるが、それによって発作は確実に起こる。
それもチアノーゼと痙攣を併せ持つ発作だから本当に怖い。
なんども「死んでしまうのではないか」と思ったことがある。

てんかん薬は毎日のこと。おのずと、食事に対しての緊張感が高くなる。
とにかく食べさせることに躍起になる。薬を飲むために食べさせているような感じだった。そして食べたか食べないか、どのくらいの量食べたか、この量で吐くか吐かないか・・・・・。を毎食気にしなければいけないストレス。そして毎回綱渡り状態。それは同時に介助してる人たちの神経を削る。
自宅にいる時は何とかしていた。この微妙な状態を調整しながら、神経削られながら、それでも何とかするしかなかった。しかし、自立生活になってヘルパーさんたちが同じような状態で悩みだした。
これはいかん。なんとかしなければ。
そこで薬を変えることを決断した。

訪問医療で来ていくださっているEドクターは以前からたけしの主治医でおせわになっている。薬のこともよくわかってくださる。そこで1年半前「たけしてんかん薬変更計画」が実施された。
最初は今まで使っている薬を土台に新薬を少しづつ試していく。少量を変えてから2~4週間試してまた少量を増やして‥を繰り返していく。その間睡眠、食事などのデータをもとに調子が悪ければ戻したり、前の薬を多くしたり、コロナにかかった時も微妙に調整しながらなんとか1年半。ようやく新薬に8割方切り替わってきた。

しかしここで厄介なのが新種の発作が起こってきたことだ。ドクターが言うには、薬を変えている過渡期に起こりがちなのだそうだ。その発作は、いままでのチアノーゼ、痙攣という派手なタイプではなく、ふっと一瞬意識が飛ぶタイプ。その意識が飛んだ時に、ふ~と後ろに倒れる!
大体しりもちをつくか、どこかにぶつかる。それが1日に何回か起こるようになった。これは突然起こる。何の前触れもない。だから誰かがずっと見ていないと、例えば階段なんかで起こったらそのまま転げ落ちる。ふ~と後ろに倒れていくから打ちどころが悪ければそれこそ大惨事!
これはこれで厄介。しかしドクターが言うには今試している薬がちゃんと効きだせば(今はまだ十分な量に達していない)治まるはずだと。それでもだめならまた新しい薬を試す。(え~)
ウルトラ(レッツが運営しているヘルパー事業所)の担当者の皆さんとも話した。以前の薬は効いていた。こんな新種の発作もなかった。たけしにとってはあっていた薬なのであろう。しかしあの時期を思い返せばそこに戻りたくない。ならば今ここで頑張ろう!と。

とはいえ、この後ろに倒れる発作も命の危険がある。おかげで今たけしはあざだらけ。倒れた時にいろんなところにぶつかってケガもしている。打ちどころが悪いと死に至る。
まず、アルス・ノヴァにも協力してもらって見守りを徹底することとあとヘッドギアをつけることにした。

ヘッドギアと敗北感
たけしを育て介護しているときに何度か敗北感を味わうことがある。
一つはつなぎだった。便コネ(便で遊んでしまうこと)がひどくてどうしようもならなかった時にどうにか辞めさせたくて頑張った時期があった。しかしたけしの方がいちま枚も2枚も上手でおさまらない。こちらはすっかり疲弊してしまってかなり精神的に落ち込んだ。仕方がなくつなぎを着せることにした。今となっては彼のトレードマークになっているつなぎ。しかしあれは私にとっては敗北感の象徴でもある。
今回のヘッドギアもそれに近い感覚を覚える。なんか負けた感じ。なにに負けたのかわからないのだが、いかにも介護的。彼の障害をまた一つ受け入れなければいけない象徴のように思えて心が暗くなる。
ヘッドギアかぁ。ネットで探しはしたがどれもおしゃれじゃない。
帽子さえかぶらないたけしがこれをつけるだろうか。
試しにラクビ―用のを一つ注文してみたが、即座にぶん投げた。これから夏に向かっていくのにこれは無理だな。

そこで手づくりしてみた。
言っておくが私は決して裁縫が得意ではない。うちにはミシンがないないのですべて手縫い。ミシンはそれこそ苦い経験をいくつもしていていまだにちゃんとしたのがないのだからよほど縁がないのだろう。
まあミシンがないからと言って生活に支障はない。たけしのつなぎの裾上げやら長袖を半そでに改造するのやらは切ってまつればいいだけだから手縫いでもできる。
そして今回、自己流ヘッドバンドをつくることになった。

丁度綿の体を洗うミトンみたいなのが2つあったのでそれを改造した。とにかく頭だけ守れればいい。特に後頭部を強打しても大丈夫にしておけばいいのだ。ならばバンドタイプでいいだろう。
夏だし通気性がよくて洗えることは必須。そしてヘッドギアみたいに仰々しくない感じで。
また娘からもらったオカザエモンのワッペン(彼女が好きなアーティストの作なのだそう)を中央に着けて後ろ前をわかるようにした。
あとはかぶってくれるかどうかだったが、しばらく嫌がってもそのまましておくと慣れてつけてくれる。ヘッドギアと違って通気性もいいし、本人的にも違和感がそれほどないのかもしれない。レッツのみんなの協力もあって、何とかつけて活動している。やれやれ~。

しかし1つでは汚れた時に困るのでもう一つ作ることにした。
同じ材料はないので、いらないスエットのスカートを解体して中に緩衝帯となる布を入れて作ってみた。手縫いだから針がなかなか通らず血みどろになりながらやっとできた。
しかしできてみると大きい!バンドというより帽子だな。いや~半分でよかった。
こういうところがど素人の裁縫の苦手な私の泣けるところ。
はたしてかぶってくれるだろうか??

こんなことに果敢に取り組むのはなんでだろう。困難だとがぜんやる気が出てくる困った性格は別として、それはこの敗北感を転換する作業なんだと思う。障害や病気っていうのは生易しいものではない。突然治ったり、解消したりするものではない。だからと言ってその負のスパイラルに巻き込まれるとこっちも不幸な気持ちになってくる。
かんがえてみれば、障害や病気だけではなく、災いや不幸ってのは突然やってくる。それは誰の上にも均等に降りかかるものだと思う。
そしてそれを回避することは結局できない。
ならばそれをどうやり過ごすか。
降りかかってくるものを怖がっているより、降りかかってきたものをどう自分に引き寄せて楽しんでしまうか。
そこに創造力が生まれるのだと思う。
今回のヘッドバンドを得意でもないのに手づくりしたのは、こうして彼と私に降りかかっている災難を少しでも楽しもうとする私の潜在的な回避能力なのだと思う。
そしてこうやって稚拙ではあるが創造力を発動することによって、そこにある苦難を少しでもすり替えていく。それが生きる術だとつくづく思う。

人にこの創造力が備わっていることに私は本当に感謝している。
なにかを執拗に恐れたり、悲しんだり、とらわれたりするよりも、創造する種に変換する(本当は気休めなんだけど)

今回手に何回も針を刺し作ったヘッドバンド。たけしのつらい発作と、母としてのやりきれなさと、でも楽しく生きていきたいと願う気持ちと。
さてかぶってくれるだろうか。




 

たけしの自立について考えた2023年2月11日

カテゴリー │レッツたけし私の自立



たけしのヘルパーさんが取ってくれた写真



今日はたけしが2週間ぶりに里帰り。
先週、私の用事で伸びました。
今日はお天気も暖かくて、休日でもあり10時半に帰ってきて、昼食の時以外はずっと庭で遊んでいました。
さすがに6時前には自分で家の中に入ってきたけど。
庭と石遊びを満喫してご満悦。今日が天気で本当に良かった(じゃなきゃ、やることなくて大変なことになっていたと思います!)

この家は里山(椎の木谷)に接していて、まるで森の中にあるような家。
たけしが主に住むシェアハウスは街中のど真ん中にあるから、そことはまた違った趣がこの家にはあるのでしょう。

実家のよさって、たけしにとってはこの庭なような気がします。
母の存在よりも、母の手調理(今となってはヘルパーの皆さんのほうがよっぽどバラエティーに富んだ食事を提供してくださっていると思いますが)よりも、小石がふんだんにあって、鳥のさえずりや、森の独特の空気やにおいがあって、何より自然の中でだれにもじゃまされることなく心ゆくまで石遊びができることが彼にとって、珠玉の時間なんだと思います。

そして、私にとっても、愛する人に幸せに過ごす時間を提供できているっていう事実が心を満たしてくれる。
そしてたけしを見ていると私と会いたくて帰りたいのではなく、この家。
私がいてもいなくてもある意味いいんだと思う。

私は彼にとっては、いい環境を提供してくれる人だとは思っているようですが。障害の重いたけしはそこは本当に正直で、自分にとっていい環境を提供してくれる人になついて、全幅の信頼をする(現に今シェアハウスではキイチくんへの後追いがすごい)
その生きる術というのか、まっすぐさというのか、迷いのなさというのか。
人間の根源の力を感じずにはいられません!

一方、親であるわたしは彼が幸せそうにしている姿に力をもらっているだだけで、それはほとんど自己満足。
そこに大きな誤解が生じる。

「この子の幸せをつくれるのは親である私である!」という大きな誤解。
実は親自身の自己満足で、親が子供によって幸せになれているだけ。むしろありがとうの世界だよね。

仮に、私はこの家を、シェアハウスのセカンドハウスにして、
「たけしは保田翠という親がいなくてもこの家で幸せに時間を過ごすことができる」という仮説をたてて証明出来たら、親亡き後なんて呪いは亡くなると思うんだとね。
「子どものために親がいるのではなく、親(私)のために子どもがいてほしいとおもっているだけ。」
ただそれだけのことだといいたい。

そして、親たちもその呪いから解放されて、自由になってほしい。
障害があってもなくても、子どもは人生のひと時至極な時間を親に与えてくれる。
でもある時からそれぞれ自分の人生を生きていける。
たとえそれが親の望まない方向に子ども進もうが、親からみたら、絶望的な方向であったとしても、そして親が十分に何かをしてあげることができなかったとしても、親はそこになにも口出しできないんです。
心配で心配で、手を出したくなるけど。

そしてそれは親の思うようにはまあいかない。
私も上の子どもそうでしたが、「彼らには彼らの人生があり、私には私の人生がある。」と考えてあきらめた。
そして、私は自分の人生を生きようと決心した。

私がいなくてはこの子はだめになる。とか幸せになれないと考えるのは、子どもにに対して不遜だと思う。
みんな何とかしていく。
私から見てなんとかなっていないとしても。

つくづく、
人にはその人の事情があり、人生があり、それがうまく行こうが行くまいが、その人の人生。
そこを他人(たとえ親でも肉親でも)がとやかくなんていえない。
彼がどんな人生でも、私がリスペクトして対等に付き合おうと思う。

そしてその時にできることを私の意思でできればいいと思っている。(見返りも求めないことが肝心)
それが本当にお互いの幸せと明るい未来につながる。
ということを私はたけしから学びました。
重度知的障害者て、実はすごいすごい人たちです!
(これを伝えていくのが私の生きがいかな)



 

自由について~たけしの脱走から思う

カテゴリー │レッツ家族たけし







自由について

たけしが脱走した。
それは自由への希求のように見える。

たけしの場合、近くに大好きなコンビニがある。そこに何度が介助者といったことがある。そして「いけるかもしれない」「いきたい」という感情の発露によって脱走は敢行されたのだと思う。

反対に、そもそもコンビニを知らなければ「脱走」するなんてことを考えもしないし、「行きたい」という意思も生まれない。

つまり自由っていうのは、それなりの体験や経験、知識に裏打ちされて拡大していくものだと思う。

ジェンダーの問題もそうだ。
私が専業主婦になって味わった「不自由さ」は、それまで性別に区別されることなく生きてい私が、突然、性的分類から派生する義務を課せられた時の不自由さだった。
子育て、障害児の療育において圧倒的に「母親の仕事」となっている事実と、だれも手伝ってはくれない状況による、にっちもさっちもいかない状況。

そこで味わう不自由さや違和感は、最初から専業主婦を志してきた人たちとは共感できなかった。
さらに、「子供のことは母親の役目」と信じている年配者たちにとって、そこへの疑問、異議申し立ては母親として失格であるといった烙印につながる。

自由を手に入れた体験がなければ、その状況に不自由さを感じないし、不満にも思わない。
というのは裏を返せば、知らなければよかったということにもなる。

そしてこの連綿と続いている「知らないほうが幸せ」といった、超、後ろ向きな思考が、障害福祉の中にはあるように思う。
障害者になるべく安全安心な環境を整え、ひたすら穏やかに暮らすことを求める。
脱走することも問題を起こすこともだめなことで、そうした環境がどんどんと積みあがっていく。

知ること、学ぶこと、体験することは人権にも値する。
いろいろな機会が平等に与えられること。
しかしそれは同時にさまざまなリスクもある。
脱走は交通事故にあうかもしれないし、どこかに行ってしまって死に至ることもある。

そこで常に家族や介護者はもやもやする。
そして、そのほとんどは社会側の常識に合わせてしまう。
「人に迷惑をかけてはいけない」からだ。

この言葉はいつも疑問に思う。
迷惑をかける相手はだれなのか。
誰が迷惑だと思うのだろうか。

でもそもそも社会側の価値観が正しいとはとても思えない。
もう少し許しあわなければ、だれも何もできない社会になってしまう。

そしてこれは政治に当てはめればわかるけれど、情報を与えない、自由を与えない、それぞれが監視する社会をつくれば、トップには都合のいい社会になる。

日本は自由が保障される国だと思うけれど、個々においては監視し合うというのか、暗黙のルールが多く存在するし、それからはみ出すことを嫌がる国民性もある。同じ価値観の人たちの同質性から抜け出すことができない。

障害だけの、女性だけの問題ではないと思っている。
だから、たけしたちが本当に自由に生きていく時代は私が生きている間は実現しないのではないかと思えてしまうが、私はどうにかこうにかそこにくさびを打てないのか。
私の力なんてちっぽけで、何にも変わらない自己満足でしかないけれど。

たけしの脱走は、私の自由への希求でもある。
私の、そんなに長くない人生の道しるべでもあるかな。



 

自由への「闘」走~たけしの脱走から考えた

カテゴリー │レッツ家族たけし





〈ヘルパー事業所ULTRAのスタッフの写真を拝借しています〉




 たけしは週末、土曜日の夜に自宅に帰って、月曜日の朝にアルスノヴァに戻る
日曜日もヘルパーさんとお出かけだから実質、自宅を満喫できるのは日曜日の午前だけだ。天気によっては庭に出れなかったり、イベントがあると帰らない週もある。
たまにしか遊べない「実家」である。

最近ここから1.3km離れたコンビニに行けるようになった。それはヘルパーさんと何度か出かけて彼の中に認識ができたのだと思う。
子どものころから空間把握はできる人で、大好きなコンビニはどの地域に住んでも一度行けば大体覚えてしまってひとりで行ける。
しかし困るのは交通ルールが全く頭に入らない。
交通量の多い道路でも平気で横断する。それは死を意味するから、こちらもどうしての自由に出せない。

この自宅時間に、彼の中で冒険のスイッチが最近ONになったようで何度か脱走を試みる。
今まで開いていても見向きもしなかった庭の隙間を探し出し、脱走する。
しかし、今私は一人しかいないから彼の脱走に付き合えない。

だから結局柵をつくることになる。脱走させないために。

しかし、靴も履かず、意気揚々と歩いているたけしの姿は、手に入れた自由を謳歌している青年の姿である。なんとも美しい。

それを、捕獲するのは、まったくもってこちらの都合であり、この大冒険の出鼻をいつもくじいているのかと思うと気が引ける。

そして、本来はこんな柵をつくってはいけないのだと思う。

たけしを見ていると、自由というのは経験に裏打ちされて強固になっていくのだと感じる。
つまり、コンビニがあること、そしてそこに行ったことがあること、なんとなく行けそうな感覚があること。

そうしたいろいろな体験が重なって、たけしは行動に出る!

つまり自由というのは、体験や知識、経験といったものに裏打ちされているのだと思う。
そしてその自由はさらに拡張されていく。

そもそもたけしがこの歳になって脱走を試み始めたのは、シェアハウスでの生活が礎になっている。
街に住みながら、家族では連れていけなかった、コンビニ、スーパー、ゲームセンターといったところにヘルパーさんと毎日のようにお出かけしている。その経験値が自宅でも発動されたのだろう。

つまり彼の「自由」の強度が増しているのである。

障害のある人にも選ぶ権利があると言われる。
しかし、そもそも体験や知らないことに対して「どっちがいい」「何がいい」と聞かれても選ぶことができない。
豊富なトライ&エラーの体験が自由を裏打ちし、それがその人の意思になるのだと、たけしを見ていて感じる。

そしてその自由は環境にも左右される。
自宅の様に手がなければ彼の自由は保障されない。
むしろ「どう奪うか」を考えなければいけなくなる。

私は障害者施設を運営しているから、親以外に施設職員としての立場もある。
では職員はどちら側に立つのか。

ヘルパーのように一対一で対応できるなら可能なことも集団では難しいこともある。
しかし、そうしたなかでも、家族の様に自由を奪わなければ生活が立ちいかなくなるわけではない。
スタッフは彼らとともに確信犯であるべきだ。


柵をつくる私の心は、まったく楽しくはない。
仕方がないとは思いつつもなんか負けたような後ろめたさがある。

それよりも一緒になって確信犯になる。
社会に石を投げるような、自由への暴走を一緒に行う。
そこからどんな体験、生活が展開するのかと一緒にワクワクする。
だから私は飽きもせず、いろんな事やるんだろうな。

自由への逃走。

さらに拡張していくといい。

たけしの脱走の顛末でした。




 

第8波~コロナから管理を考える~

カテゴリー │レッツ家族たけし




たけしが帰ってきた。
今回も熱を出し、風邪症状。コロナ第8波も言われている中、そりゃあ心配になるよね。

しかしこの人検査できない。
最近レッツでは毎週のように検査をするようになって、すっかり抗原検査を覚えてしまって、見るだけで完全拒否!
もともと鼻とか耳に触られるのはだめで、死に物狂いで抵抗してくる。
ましてや、もはや体重は私と変わらなくなってきている。一人で抑えられるはずがない。

昨日、訪問してくれた先生と格闘したけれど「こりゃ無理だね」と。
先生曰く、コロナも風邪みたいなものになってきているので、症状が出ていれば休めばいいし、なくなれば普通にしていればいいと。
しかしなにせ、施設に通っている人なんで検査できないかとお願いしたが、彼の場合、検査して確実にわかるものでもないし、そこまでしてやらなくてもいいのではと。

コロナも随分と変わってきたものだ。
それぞれの施設で判断すればいいということなのだろうか。

健康って人によって本当に基準が違うと思う。
レッツはかなり鷹揚な団体だがそれでもコロナに関しては、行政のお達しもあるからマックスな状態で対策してきた。BCPつくったし、コロナ対策本部や連携協議会ができたりと、いままで経験したことがない緊張感があった。
それはこれから起こるかもしれない災害や緊急事態の時に役立っていくだろう。

しかしそのうえで、やはりどこで気を抜くかを考えないといけないと思う。
じゃないと管理になっていく。

あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ、食べちゃダメ。とダメなことが増えていくと、結果的に人の価値観にも大きく作用していくと思う。

そもそも規則が苦手だから、レッツでは禁止事項や約束事はなるべく自分たち流にカスタマイズしてきた。
定款や就労規則も雛形通ではなくかなりオリジナルだ。

そしていよいよコロナ対策もそういう時期に来ているのかもしれない。
我々がどうつきあうか。
かかることをそんなに恐れなくてもいい病気になってきたのであれば、施設としていい塩梅を模索する時期に来ているのだと思う。


コロナは世界に大きく影響を御及ぼしたが、私たちの活動にも大きく影響したと思う。
その話は次回



 

わたしとアート 還暦に思う。

カテゴリー │レッツ家族私の自立



9月16日で60歳になる。
よくもまあ、60年も生きてこれたものだと思う。
人生100年時代に60なんて当たり前だと言われる。
しかしそうではない。
60年。立派なもんである。
わたしだけではなく、だれでもそうだが、山あり谷ありを乗り越えて60年、生き延びてきたのだ。
そして、私が生き延びてこれたのは、私にアートがあったからだと思う。

人は一人では生きていけない。
自分にとって都合のいい人ばかりと付き合えるはずもない。
時に対立し、激しく口論することもある。
私はそこをどうしてもごまかすことができない。
それは生きづらさと隣り合わせでもある。
だから私は芸術系に進んだのだと思う。

都市デザインの仕事は楽しかった。
とにかく空想して夢を形にしていくような仕事だった。
人が思いつかないことを考える、思考を転換させるなど自由に発想できる。そして実装がある。夢中になった。

しかしそれは、たけしの誕生で潰えた。
それどころではない。
この人を育てなければいけない。

しかし、たけしはすごかった。
それは障害だからというより、人として、常識は全く通用しない。歯が立たない。
こちらも必死に「アート」を出動させる。

そこで、彼の常識を逸脱した行為一切合切を「表現」としてとらえる。
これは魔法だった。
表現ととらえなおした瞬間に、違った世界観が見えてくる。
それは私がこの人を殺し、自分も死ぬといった惨事にならない方法でもあった。
私も再生することができた。

たけしが私の人生を変えた。それは事実だ。
しかし、たけしだけではない。
私は自らが作った家族に本当に翻弄された。

愛があるから、悩み、混乱し、あきらめがつかない。
混沌としていて、矛盾に満ち溢れている。
それが家族なのだろう。

夫や娘に「普通」ということばを連発していたように思う。
普通じゃない私が普通を振りかざす。

男とは、女とは、妻とは、いい家族とは‥みたいなことにとらわれてもいた。
たけしの常識、社会の常識、何が常識でそうでないのか。
そうしたもやもや、ヒリヒリ、ぐるぐるする思考とエネルギーを私はレッツの活動に吐き出していたのだと思う。

レッツの活動は私のリアリティでもある。
そして、いいことも悪いことも、アートは引き受けてくれる。

アートは作品だけではない。
こうした行為そのものもアートだと思う。
そしてやっと私は、まともに生きることができた。
生きるためにアートが必要だった。
そしてこの術を私はとても尊く思う。

今、夫はこの世を去り、娘や息子は自立の道を歩み始めている。
気付いたら60になっていた。
人生これで終わっても悔いはないけれど、そうもいかない。

まだ云十年残っているのであれば、若かりし頃、楽しくて仕方なかった街づくりとつなげながら、たけしたち重度知的障害者の社会的な役割をだれもやったことがない方法で実現してみたいと考えている。

とはいえ体力も知力も劣ってきている。体は相当ガタが来ていてあちこち痛い。
でもこの体と知力でできることでやればいい。

生きていれば必ず悩みは生まれる。
今までちゃんと生きたから、これからは大丈夫なんてことはない。
人の人生なんてわからない。

そして死ぬときは一人だ。
天国なのか地獄なのか知らないが、死に方も選べない。なにも持っていけない。
だから人は野垂れ死にしたっていいのだ。

いい死に方なんてあるわけがない。
そして、何かを成し遂げるために人は生きているとは私は思わない。
人は自分を表現するために生きているのだ。
どんな生き方だって、死に方だって、その人の表現。
多様にあっていいし、どれも尊いよ。

なんてことを考えている還暦である。