上田市で考えた~文化的場づくり

カテゴリー │レッツ









 11日26日に、長野県上田市にある障害福祉施設リベルテさんが主催する「good Job!」展示会のシンポジウム「この街で、「生きてはたらくこと」をかんがえる」に、工房まるの樋口隆二さん、たんぽぽの家の藤田克英さん、とトークしました。

レッツは作業しないし、グッズも作っていないし、「彼らが社会に存在していることがシゴト」なんて平気で豪語してしまう団体。
冷や汗モノのトークだったけれど、なんか根底に流れているのはいっしょんんだなと。


それはそうとして、上田市の街がすごかった。

 街を見る時に私は勝手に、駐車場代で結構その土地の地代とか、中心市街地としてどのくらい機能しているのかを判断する。
上田市の中心街は決して高くない。
昼間でも1時間100円のところも多かった。
日曜日なのにそんなに人も歩いていない。

なのにですよ、
この界隈に、コワーキングスペースがあり、演劇家が作ったゲストハウス兼スペース、「犀の角」がある。
リベルテも近くだし、東京でめちゃ人気のパン屋さんルヴァン(私は知らなかったけれど)があり、若い人たちが、いろんなスペースを作り始めているらしい。

障害福祉の関係者の人たちが「地域」という時に、その地域は「他の福祉施設」だったりする場合が多い。
福祉施設関係者がが福祉施設と仲良くしたところで、おもしろくなるはずもなく、広がりも生まれない。
レッツはここを気にしてやってきているけれど、難しさも感じている。

それはこちらは仲良くなりたくても、相手にとって、組むメリットがない。
アルス・ノヴァがある入野もそうだけれど、商店街じゃないから、不特定多数の人が来てほしいわけじゃない。
むしろ不特定多数の人が来るのは、「街がうるさくなる」「安全じゃなくなる」と思いこんでいるフシもある。

そんな中で、レッツに、いろいろな人が来ていても関心もないし、ブラブラしていてもミョーな心地悪さもあったりして。
それは、障害の人たちも同じで、よく散歩に行くけれどいつまでも、「異邦人」というのか「仲間」にいれてもらっている感覚が持てない。
特別視っていうのは、住宅街ではなかなか拭えない。

 今浜松の街なかに建設予定のスペースは、街のど真ん中にあって、この異邦人感をどれだけ払拭できるかの実験みたいなもの。
実はレッツは、イベントやるのも結構上手だし、コンサートとか、ライブ、チラシ、冊子の制作も自前でできてしまうスキルがある。
でも自分たちの活動している街(入野)にあんまり還元できなくて。
あんなに音楽毎日やっているのに、近隣の人たちは絶対来ないし。
のヴぁ公民館も、本当に地域の普通の人達が来る場所ではない(好きな人は来るんですが)

だから、人が来てくれることが前提の商店街であれば、レッツのスキルもすこしはお役に立つのではないか。
また、自分たちがのスペースを開放することで本当の意味で街の人たちと繋がれるのではないかと期待している。


そして今回、犀の角は、そんな場所であった!
噂は、ここを設計した大と小とレフの一郎太くんから聞いていたが、実際想像以上だった。
なんて言ったらいいのかな、街とちゃんとつながりが見える場所だった。
街のプラットフォームみたいな。

文化だ。
ひたすら地域、街を耕している。

ゲストハウスを持つコミュニティースペースって、何処かに生活を感じる。
それはご飯だったり、寝ることだったり。
そういういものがバックにある安心感というか。
貸しスペースだけでは絶対醸し出せない匂いというのか。
オーナーさんが風邪でお会い出来なかったけれども、街の文化を下支えしていることは十分に分かった。
同時に、大変だろうなと思った。

好きじゃなきゃ、信念がなきゃ、そして体力がなきゃできない。
さすが演劇やっている人だけあるわとミョーに感心して。


同時に、これからやっていくレッツのスペースのことも考えた。
レッツは最初からあまり用意してやらないで、成り行きに任せていこうとは思うけれど。
やっぱりどうしても支援に引っ張られていくことは否めないだろう。
スタッフだって皆仕事としてやっているわけだし、最近子どもが3人も生まれているから、みんな忙しい。
その中で、どれだけみんながあそべるのか・・・・。

むしろ託児所作ればいいのかもしれない。
たけしも含めて、みんながダラダラしていることができて、その中でトークしたり、飲んだい、喋ったりできればいいのか・・・。


浜松っていう街は、産業がだめではなく、結構イケイケの人が多く、どちらかと言うとはっきりした街。
いいもの、そうでないもの,いけているもの、だめなものの境目がはっきりしている。
というかはっきりさせるのが好きな人が多く住んでいる。
だから決して上田市にはならない。
このある意味曖昧にして、醸成させていくみたいな文化が育たない。

だけどだから面白いところもある。
なんでもやるし、取り入れるし、飛びつくし、飽きるし。
そうやって火の玉のようにぐるぐる回っている感覚は私は好きだ。

だからといって結果なんてでないから、もやもやずっとしている。
決して諦めないところが、この街が時々、ワッとする発明や、企業が生まれる所以なんだと思う。

つまり、即物的ではあるけれど、結構無駄なことたくさんやっている街だと思う。
発酵文化を持たない浜松市で、いったいどんな文化が生まれるのか。
それも障害者やマイノリティーの人たちが中心となって。

決して、犀の角にも、上田市にもなれないけれど。
障害の人がいて、スタッフがいて、人がいて、いろんなことやっていて、引っ掛かりがあって、ムリせず、誰かが一方的に我慢しないで成り立つ場。
特に、私も含めて、介護している人や、お母さんたちが来れるといいと思う。
子供連れて、ジジババ連れて。みたいな。
それで福祉っぽくなくて、本当の「学び」のばであったらいい



今回、ザ上田のようなおっとりしているけど真の強い武捨さん夫婦、ますます高みを目指す、障害者仕事開発のカリスマだと思える樋口さんと、たんぽぽのNEW世代を代表する、播磨世代とは違う時代を作っていくであろう藤井さんと、楽しい時間を過ごさせていただきました。
最近私よりみんな若くて、キラキラしている。
日本の未来は明るいと思える人たち。

そして今回、武捨さん夫婦と、犀の角オーナー夫婦のところに赤ちゃんがいて。ママたちはあやしながらしっかり仕事していた。
レッツの今年の出産ラッシュを思うと、この子達が育った20年後にはどんな時代になっているんだろう。
きっと全く違う価値観が生まれているんだろうね。

邪魔しないように、バトンを渡せるといい。


















 

母親の生存権と文化権

カテゴリー │家族




 10月30日、ハート・ネットTVブレイクスルー放映されました。
今回の取材や、番組を見ていてつくづく考えたことがある。

レッツは確かに、たけしの問題や障害者の問題を、私なりに解決したいという思いからはじまり、それが社会化されて来ている。
しかし、20歳を超えて、親とは違う人生を歩いて行ってほしいと望むその背景には、私自身が、そこから開放されたいという思いが強くなっていることに気がついた。

たけしが3歳の時、この子を育てながら仕事をしたいと役所に訴えると「それならば入所施設にお子さんを入れてお母さんが自己実現すればいい」と言われた。
唖然としたと同時に、その選択肢しかないという悔しさと絶望感と怒り。
それが結果的にレッツを起こしていく機動力にはなった。
しかし、今社会はその時とどれだけ変わっただろうか?

20歳を迎えた重度の障害のある息子の自立を考えたところで、それを支えるサービスは皆無だ。
それはすなわち、「家族でなんとかしろ」と言っているのも同然。
17年前となにも変わっていない。

日本の福祉は、子ども、障害者、高齢者も全部同じで、まず家族があり、そこが崩壊して初めて手が入る。
家族が支えることが前提なのだ。
そしてその多くは、母親、女性の仕事と責任として任されている。

それを、「私の生きがい」と思えない場合、あるいは「他に生きがいがある」場合(仕事などやりたいこと)それらは一度棚上げしないといけない。

しかし、そこに母親の、あるいは女性の人権は存在するのだろうか?
重度の障害者、高齢者、子どもの人権はよく議論になるが、母親、家族の中の女性の人権はある意味無視されているのではないか。

子どもを育てることは苦労の連続。その苦労によって得られる喜びというのはあるし、そこに多くの人生の示唆と味わいがあるのは承知の上だ。
だからといって、「私はこう生きたい」というものを、一時的にでも奪っていいものなのか。
また「母親だから当然だ」「親だから仕方がない」と、と考える風潮や恫喝にも似たお仕着せに、多くの女性は、負い目とそれでも違うという思いに悩んでいる。

しかしこの問題が深刻なのは、それは当然という教育がまだ行われ、あまり疑う人が同性でも少ないこと。

私ですら、
「迷惑をかけたくない」
「申し訳ない」
と思っていたし、自分でなんとかしようとしていた。

しかし、ここに来て初めて気がついたのは、そうやって、家族で全部なんとかしようと思ってきたから、困り果て、結局行政や福祉に頼るという構図を作ってしまう。

社会で、普通の人たちが、弱い立場の人々を看ると言った文化がどんどん欠如していったのは、当事者家族に課せられた荷が重すぎて、我々はなにも言えなくなったし、そこに自分たちでなんとかしなければいけないと言った妙な責任感と閉鎖性も原因していると思う。
いろいろな人が気楽に関わる機会がない状態を、家族自身が良しとしてしまった。

これからの時代、
そこを、開放する。

母親を開放して、そこに関わる人達を開放して..

弱い立場の人たちがいることが当たり前で、親が見なくても誰かがいるし、さらけ出せる社会に向かうには、ライトな感覚を家族自身が持たないと、この問題は解決しないだろう。

すべての人たちが自由意思で、面倒見たり、みられたり。
シェアし合う、「共生の文化」が本当に芽生えたらいいのではないか。

そのために、私自身が手放し、その開放感をちゃんと訴えていかないとけないと。



私の夢は、
一人で夜、ふらっと飲みに行って、友人と朝まで語り合うなんて生活。
私の歳になれば、当たり前なことができない現実。

そこにすべての根源があるのかもしれない。


















 

障害者の表現とは?

カテゴリー │レッツ





 11月3日、4日は福井へ出張。
福井市の特別支援の酒井晴美先生は13年間、「みんなで舞台にたとう」を進める会、通称ミナブタを主催している。
障害のある子どもたちに呼びかけて、毎年舞台を作っていると言う。
ご自身が演劇人であることもあって、舞台を障害の人と作りたいという思いで続けてこられている。

何年間もやっているから、いわゆる常連さんたちがいて、その親御さんたちが運営を強力にバックアップしてくれている。
今は、舞台練習だけではなくほぼ毎週太鼓やダンスの講座もあって、まさしく親子の居場所になっている。

昨日のテーマが表現だったので、私が考える表現についてお話した。

みんなが居場所として集まる場所と、舞台を目指し、表現するというのは、一緒なのか。
また親御さんたちも盛んに、「この子達の表現」とおっしゃるのだが、果たして、舞台で何かをやっているのが「表現」なのか?

レッツの事例は、何か取り立ててたことを「表現」とい言っているわけではなくて、彼らの日常、もっというと、@『生きている」ことがまさに「表現なのではないか?」と言う問いでしかない。

毎日入れ物に石を入れて叩き続けるたけしの行為。
ずっと寝ている、いつも緩慢な動きのりょうくん
同じルーティンを繰り返すツッチー。

それら「とるに足らないもの」として簡単に打ち捨てていいのか。
ひとが何か続けている行為を誰が「いい」「わるい」と決めることができるのか。

またいろいろな規定や固定概念を外して、彼らの行為を見つめると、まず肯定することから始めると、そこから全く違った価値観や、見え方が発見できる。

そういったものを私は表現と言いたい。

親子が毎週楽しみに通っている場があるというのはいいことだ。
舞台で振り付けがあって、練習があって、それを発表することを否定しているわけではない。

でも何か残念な気がしてくる。
それはあくまでも健常者が開発した健常者のモデルがあって、それを踏襲することを、暗に強いている。
時間も、空間も、言葉も、全く自由にしてしまったら成り立たなくなる
それを全くオリジナルにしてしまったら多分怒られるだろう。

しかし、障害者というのは、オリジナルにしてしまう力に溢れている人たちだと思っている。
こんな解釈、こんな動き方があるのかと、むしろ感心してしまう。

だからレッツは舞台ではなく『タイムトラベル100時間ツアー」だったり、お出かけだったり、生(ナマ)な彼らに触れてもらうことに注力する。

と考えると私は絶対舞台はできなくなる。

でもそんな小難しく考えないで楽しければいいよねっていうのもまた1つだとは思うよ。

でもさ、そこから『新しい表現」は生まれるのかな?

そしてみんな、それを本気で追求したいと思っているだろうか?


  そんな、もやもやした話をしてきました。
  実はやりにくかった~。