「親亡き後」をぶっ壊せ その2

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 私が「親亡き後」と言うことば使いが嫌いなのは、この言葉の前提条件として、「親が死ぬまで子供の面倒を見る」と言う含みを感じるからです。
親が亡くなってしまうか、あるいは大きな事故(たとえば離婚、病気、など面倒が見れなくなった時)が起こった時のために、親に代わる擁護者を作らなければいけないといった、切羽詰まった感じを受けます。

その切実さは、福祉関係者や心ある人々の多くの共感を得ると共に、施設やグループホーム等を作る起動力になる場合もあります。
しかし、ここに欠けているのは、それは親の都合であるということです。

 私が運営するアルス・ノヴァとという施設に、私の息子たけしも通っています。
たけしが20歳の時に、イベント参加のために利用者さんとスタッフ全員で宿泊する事になりました。
私はそれまでの苦い経験を鑑みて、たけしは宿泊は難しいだろうと考えていました。
それと言うのも、たけしは18歳の修学旅行で2泊3日全く一睡もせず、ほとんど一食も食べずに帰ってきました。
それは担任の先生の最大限の努力にもかかわらずです。
また家族の旅行でもほぼ同じで、まともに部屋に入ることもできず、食事もできませんでした。
いつもと違うことに極度に反応してしまうのです。
そうした、悲惨な体験が私のトラウマになり、彼との旅行はほとんど考えられないものになっていました。

ですので、今回の宿泊も多分一睡もできす、一食も食さないで帰ってくるのだろうと思っていました。
そうなった時にスタッフにかかる負担はかなり大きいものとなります。
ですので、出かける前から「申し訳ない」と言う思いが強く、眠剤を多めに持たせたり、念入りにあーだ、こーだと伝えました。

しかし、現実はどうでしょう!
皆と行動を共にし、宴会にも出席し、食事もして、いつもどおりの眠剤でよく寝たそうです。
散々脅かされていたスタッフはかなり拍子抜けしたそうです。
その後、家で暴れるかと思いきやそんなことはなく、その後1週間というもの、とても機嫌が良かった!

私はそれを機会に、自分の考えかたを改めました。
心配しているのは親ばかりであって、本人たちは(重度の知的障害者であっても)、気の合う仲間と家族ではない若者たちで出かける旅行は楽しいのです!
それまでの親の経験が彼らの全てではないということです。
これは20歳を過ぎた若者であれば当たり前であるのに、親というのはついつい自分のテリトリーで考えてしまうのです。
親は本当にだめだと自覚しました。

もう親が立ち入らないほうがいいのです。
親の知らない人間関係で彼らの人生は作られていくべきだし、それが出来る。
と確信した出来事でした。

しかし現実は、親が介護しなければ成り立たない社会システムです。
日本の福祉は、家族支援を前提にして成り立っているのです。
家族がギブアップして初めて福祉の手が入るようになっています。
そしてこれは、障害者に限ったことではなく、高齢者も、健常の子どもも同じようなものだと思います。

社会システムといいましたが、私は「行政の対応が悪い」「制度が悪い」「法律が悪い」と思っていません。
もっと根本的な問題だと思うのです。
誰かのせいではないと思います。
これは私達自身の問題としてみないと解決方法が見えないと思うのです。

「親亡き後」ということがをつくってきたのは親たちです。それは我が子を愛するがゆえの訴えでもあります。
しかし、それは間違っていると私は思います。
先ず我々親が、子どものことの前に、自分の人生をどう考えてきたのか。
それはそうしたくてもそうできなかった社会的背景があります。そんなこと言っていられないほど過酷であったことも私も身をもって感じています。
しかし、それでも、先ず「私の人生」「私の幸せ」、私の人権を考えてきたら、死ぬまで子供のことを心配する人生なんてありえないと思うことです。

今たけしは22歳です。
もし私がもっと早くにこの「私の人権」について考えていたならば、ずいぶんと違っていたように思えるのです。


では「私の人権」を私が守るためにはどうしたらいいのか。
それはたけしを快く預かってくれる支援者を探すことでしょうか?支援者をつくることでしょうか?

それはどちらも違うと思うのです。
まず、自分たち親に代わる支援者を作ろうとするところに無理があります。
私たちがこんなに頑張って、自己犠牲を惜しまずやってきて、そんなことを肩代わりしてくれる支援者が現れると思いますか?
それこそ、そんな人が現れたら、私たちは申し訳なくて、一生その人のことが不憫でならなくなりませんか?
せめて、国の制度に載せて、お給料でも払わないと申し訳が立たなくなりますよね。
またその人がいなくならないように、多少子どもたちが我儘言っても、親がおかしいなあと思っても、いなくなってもらっては困るから、言いたいことも言えなくなりはしませんか?

こうではないと思うのです。
結局、誰かの多大な自己犠牲の上に成り立つ人間関係は誰かを不幸にしてしまうと思います。

私の運営する施設では、今、観光事業というのを行なっています。
アルス・ノヴァに、宿泊して、身を置いて、障害の人たちと時間を共にして、自分の人生やいろいろなことを感じたり、考えたりしていただくと行った事業です。
そのきっかけになったのは、障害のことを全く知らない大学生7人が、3泊4日アルス・ノヴァで合宿したことでした。
最初大学生は彼らのことを「障害者」と呼んでいました。しかし、3泊4日経つと、「カワちゃん」とか『マイちゃん」といった固有名詞になりました。一緒に散歩し、ご飯を食べて、日課を共に行い、時には会話して、若者同士の普通の交流をして帰っていきました。

その後、そのうちの何人かの人生が変化しました。
ここでの経験が彼らにとって大きなきっかけとなったのです。
これは本当に驚きでした。
そして、障害者の存在が誰かの人生の後押しになることがある。
彼らは、「なにもできない」人たちではないということを心底実感しました。

 親や、専門家は「彼にはこういう障害があり、こうゆう特徴がある」といった先入観から入りがちです。
しかし、世の中の人は意外とそういうものがなく、フランクに普通に彼らと接します。
おかしい時には笑い、怒る時には怒ります。それはまさしく友だちとして付き合うからです。
とかく障害者を目の前にすると、どう接していいかわからないと言われます。
大学生もそうだったと思います。
しかしそこから、この人とコミュニケーションとりたいと思えば、それぞれのセンサーで縦横無尽にそのやり方を発見していくのです。
その試みは、未知な人と出会った時誰もがやることであると思います。
障害者の場合、一つ違うのは、今までの経験が意外と役に立たなく、創造力たくましくいろいろ試行錯誤することが強いられます。
しかし、それがかえって新鮮であり、新しい発見があります。

親が「親亡き後」と心配する前に、とにかく彼らから手を離して、「野に放つ」ことが大切だと思います。
彼らは私たち親が考える以上に能力が高く、人とコミュニケーションをしていくのが上手です。

アルス・ノヴァには、重度の知的障害と言われる人たちが多くいます。
重度の自閉症であったり、こだわりもかなり強い人も多くいます。
人混みが嫌い、子どもが嫌い、大きな音がだめ、ごちゃごちゃしていると暴れる・・・、など、施設や親から申し送りされることもあります。
にも関わらず、皆、アルス・ノヴァの混沌とした騒がしいフロアーに集まってきます。
スタッフは平気で、宿泊にも、街中にも、東京にも、展覧会にもどこにでも連れて行きます。

私は今まで「人が本当に嫌い」な障害者に会ったことがありません。
皆仲間が好きだし、お出かけが好きだし、新しい刺激を求めています。
それは人間だからです。そして若人だからです。

彼らはお願いして友だちになってもらうのではなく、野に放てば、自然と「友人」をつくってきます。
それだけ(親が考える以上に)魅力的な人たちです。

「親亡き後」、などど、悲しい人生に彩られるのではなく、彼らを野に放つ勇気を私たちは持つべきです。
そして親も親の人生を当然のこととして生きる。

人はどんな人でも、たけしでも、多くの仲間をつくり、自分の力で人生を切り開いていくのだと感じています。








 

「親亡き後」をぶっ壊せ その1

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障害者の世界ではよく「親亡き後」と言うことばが使われます。
「親亡き後どうするか?」
は親の果てしないテーマです。
つまり、親が障害の子供の援助をできなくなった時、「この子はどうなるのだろう?」という不安や、「そうなっても大丈夫なようにしていく」といった決意など、親にとってはかなり重い言葉として捉えられています。

私はこの言葉が嫌いです。

まず、親亡き後に「困るだろう」と思っているのは誰なのか?
これは本人ではないと思うのです。
困っているのは親です。
「親が居なくなったらこの子は不幸になる。」や、「親が彼、彼女たちにとって最高の援護者である」というのが前提のような気がします。
だから「我々がいなくなったらこの子は困るだろう。だからなんとかしなきゃ」と。
これは「親の都合」のような気がします。

しかし、はたして、障害の子どもたちは親にそれほど期待しているでしょうか?
20歳をはるかに過ぎた大人の障害者たちが、親に庇護されていることを本当に幸せだと思っているのだろうか?
親と生活したい、親と暮らすのがいいと思っているだろうか?

もちろんたけしに聞いたところで(たけしは重度の知的障害者で言葉を発することも身辺自立もできません)、答えなんか返ってきませんが、しかし私は22年間の生活の中で、ここ2~3年、必ずしもたけしが私と居ることをそれほど「楽しい」とは思っていないことがわかるようになりました。
つまり、普通の子どもと同じように、20歳も過ぎていつまでも、親と一緒にいたって、うっとうしいだけの存在なのだろうと感じているのです。
そしてこの彼の、まるで普通の思春期の青年のような拒絶は、私にとってはうれしいものでした。
重度の障害者であっても感情はちゃんと成長しているのです。
いつまでも子供ではない!ということです。

しかし、この話は実はもっと複雑だと感じています。
というのも、親自身も、20歳を過ぎた大人の彼らと一緒に生活したいとは思っていないという事実があると思うのです。
親だって飽き飽きしているのです。
早くここから開放されたいと、本音のところでは思っている。
しかし、他に看てもらえるところが圧倒的にない!
そして、親自身の「人様に面倒をおかけするなんて申し訳無い」と言う社会に対する忖度が根強くあるのです。

だからここから開放されないのです。
それは望んではいけないことのようでもあり、だから、「私たち親が我慢すれば」「私たちが頑張れば」なんとかなると、親たちはずっと考えてきたのだと思います。
そしていよいよ、彼らを見れなくなった後、「どうすればいいのか・・」とある意味絶望感も感じながら、右往左往している・・。
それが現実です。

親である私だって同じようなものです。
しかし、つくづく考えてしまいます。

まず、親である私の人権はどこにいったのか?
障害者の親は一生、子供の面倒を見なければいけないのか。
それが障害者である彼らが望んでいることなのではなく、しかたがないからなのではないか。
そして、少なくとも私は、障害者の親であっても自分の人生を生きたいと思っていますが、それが奪われていると言えるのではないか・・。

たけしが生まれて障害がはっきりした時に、私は仕方なく仕事をやめました。
眼の前にたけしがいて、この子を育てていかなければいけなくなった時、「母親だから」仕事をやめてでも育てるしかない。と決断しました。
しかしその時に、「母親は子どもを育てるものだ」といった、固定概念が私にもあったと思います。
その時に「父はお金を稼ぎ、母は子育て」と言う役割分担が当たり前にあり、私もそれに疑いを持たなかった。
もちろん、仕事を続けられるだけの社会的資源(現在の放課後等デイサービスみたいなサービス)があったら、私は仕事をやめなかったと思いますが、それ以前に、ジェンダー的な役割分担が明白でした。

それから私は「母親」と言う役割を結構真面目にやってきたつもりです。それなりに楽しく、得ることもたくさんありました。しかし、なんというのか、母親は(障害の子供関係なく)、社会的な地位が低い。
「女がやって当たり前だろ」と言う、まるで人を人としてみていないような扱いを受けることが多々あります。母親(実は女)が、家族のためにかしずくのが義務のような感覚はまだまだある。
そしてそれは男性にだけではなく、同性である女性にも根強くある。

そしてこれが、障害者の自立を遅らせ、家族介護に縛り付けている原因ではないかと思えてきたのです。

もし、母親の人権、父親の人権、親の人権、子供の人権、障害者の人権がしっかり守られる風土があれば、20歳も過ぎた障害者をいつまでも親が倒れるまで面倒見なければいけないなんていう社会システムにはならなかったはずです。
そして、「親亡き後」なんていう、悲しいことばも生まれてこなかったでしょう。