たけしの自立について考えた2023年2月11日

カテゴリー │レッツたけし私の自立



たけしのヘルパーさんが取ってくれた写真



今日はたけしが2週間ぶりに里帰り。
先週、私の用事で伸びました。
今日はお天気も暖かくて、休日でもあり10時半に帰ってきて、昼食の時以外はずっと庭で遊んでいました。
さすがに6時前には自分で家の中に入ってきたけど。
庭と石遊びを満喫してご満悦。今日が天気で本当に良かった(じゃなきゃ、やることなくて大変なことになっていたと思います!)

この家は里山(椎の木谷)に接していて、まるで森の中にあるような家。
たけしが主に住むシェアハウスは街中のど真ん中にあるから、そことはまた違った趣がこの家にはあるのでしょう。

実家のよさって、たけしにとってはこの庭なような気がします。
母の存在よりも、母の手調理(今となってはヘルパーの皆さんのほうがよっぽどバラエティーに富んだ食事を提供してくださっていると思いますが)よりも、小石がふんだんにあって、鳥のさえずりや、森の独特の空気やにおいがあって、何より自然の中でだれにもじゃまされることなく心ゆくまで石遊びができることが彼にとって、珠玉の時間なんだと思います。

そして、私にとっても、愛する人に幸せに過ごす時間を提供できているっていう事実が心を満たしてくれる。
そしてたけしを見ていると私と会いたくて帰りたいのではなく、この家。
私がいてもいなくてもある意味いいんだと思う。

私は彼にとっては、いい環境を提供してくれる人だとは思っているようですが。障害の重いたけしはそこは本当に正直で、自分にとっていい環境を提供してくれる人になついて、全幅の信頼をする(現に今シェアハウスではキイチくんへの後追いがすごい)
その生きる術というのか、まっすぐさというのか、迷いのなさというのか。
人間の根源の力を感じずにはいられません!

一方、親であるわたしは彼が幸せそうにしている姿に力をもらっているだだけで、それはほとんど自己満足。
そこに大きな誤解が生じる。

「この子の幸せをつくれるのは親である私である!」という大きな誤解。
実は親自身の自己満足で、親が子供によって幸せになれているだけ。むしろありがとうの世界だよね。

仮に、私はこの家を、シェアハウスのセカンドハウスにして、
「たけしは保田翠という親がいなくてもこの家で幸せに時間を過ごすことができる」という仮説をたてて証明出来たら、親亡き後なんて呪いは亡くなると思うんだとね。
「子どものために親がいるのではなく、親(私)のために子どもがいてほしいとおもっているだけ。」
ただそれだけのことだといいたい。

そして、親たちもその呪いから解放されて、自由になってほしい。
障害があってもなくても、子どもは人生のひと時至極な時間を親に与えてくれる。
でもある時からそれぞれ自分の人生を生きていける。
たとえそれが親の望まない方向に子ども進もうが、親からみたら、絶望的な方向であったとしても、そして親が十分に何かをしてあげることができなかったとしても、親はそこになにも口出しできないんです。
心配で心配で、手を出したくなるけど。

そしてそれは親の思うようにはまあいかない。
私も上の子どもそうでしたが、「彼らには彼らの人生があり、私には私の人生がある。」と考えてあきらめた。
そして、私は自分の人生を生きようと決心した。

私がいなくてはこの子はだめになる。とか幸せになれないと考えるのは、子どもにに対して不遜だと思う。
みんな何とかしていく。
私から見てなんとかなっていないとしても。

つくづく、
人にはその人の事情があり、人生があり、それがうまく行こうが行くまいが、その人の人生。
そこを他人(たとえ親でも肉親でも)がとやかくなんていえない。
彼がどんな人生でも、私がリスペクトして対等に付き合おうと思う。

そしてその時にできることを私の意思でできればいいと思っている。(見返りも求めないことが肝心)
それが本当にお互いの幸せと明るい未来につながる。
ということを私はたけしから学びました。
重度知的障害者て、実はすごいすごい人たちです!
(これを伝えていくのが私の生きがいかな)