たけしと自立生活2~母親としての揺れ~

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たけし文化センター連尺町3階での様子 この日は賑やか~


帰宅途中の車内で。あきれるほどうれしそう(そんな?)


たけしと自立生活2~母親の揺れ~

2019年10月から久保田壮の自立生活がたけし文化センター連尺町3階のシェアハウス+ゲストハウスで始まった。
それから早4か月が経とうとしている。
さまざまなすったもんだの末、ようやく落ち着いてきたかな。

感じていることを書き記すことにした。

 
 たけしがこの生活をスタートした時に私は自分に言い聞かせた。
「たけしの自立を獲得していくためには私がたけしへの心配や親心をある程度捨てないといけない。
人に任すのだから自分の都合であーだこーだ言ってはいけない。
そう、人にゆだねる!」と、覚悟を決めたつもりだった。

だから1か月まるまるたけしは自宅に帰ってこなかった。
それはお互いに里心がついてよくないと思ったからだ。
しかし同じ法人にいるので昼間はどうしても会ってしまう。
なるべく会わない様に身を隠したり、トイレに逃げ込んだりした。それでも見つかってしまうこともある。
そんなときの「家に帰ろうよ!!」アピールはすさまじかった。
全力で私の手を引いて帰りたいとアピールしてくる。
そういう姿は母親としてやはり切ない・・・。

たけしは口がきけないから行動で示す。しかし彼の細かな感情はわからない。何で帰りたいのか、何が良くて何が悪いのか・・・。
仕方なく3階まで一緒に行って、しばらくいてから、隙を見て逃げるように帰った。
その時はもっと切ない。涙が出そうになるのをこらえた。

確実にたけしの自立生活が始まってから私は自由を手に入れた
。好きな時に人に合うことも夜出かけることもできる。
今まで月に1回、2か月前の予約でもとれるかどうかわからないショートステイでやっと出張ができていた。
誰かと飲みに行くなんてとんでもない!世界だった。
東京の友人に「おめでとう!」の会までしてもらった。

確かに、いつ何が起こるかわからないから常に臨戦態勢で生活していたあの頃に比べれば楽になった。
しかし、なぜか目覚めが悪い。
朝起きたときに「たけしは無事にしているのだろうか」と思わない日はない。
これが母親というものなのか。
わりと割り切りがいい方だと思っていたが、私の中にもこういう感情がちゃんと備わっていることに自分でも驚く。
毎朝、夫の遺影に「たけしを守ってやってよ」とつぶやく。
ほとほと親ばかだと思う。

しかし、それはある意味仕方がないことだと思う。
23年間もずっといっしょにいたのだ。それも0歳の赤ちゃんみたいな人がずっと。
3か月じゃ体と気持ちが着いていかないのは仕方がないのかもしれない。

 この試練にも似た思いは、意外に貴重だと思っている。
たけしがこの生活を送る少し前から、私はブログやアルス・ノヴァの親御さんたちに「自立を考えましょう。親がいつまでもかまっていてはいけない。手を放しましょう」と説いていた。
しかし、いざ自分でやってみると、そんなに簡単に割り切れるものではなかった。

親の愛、子どもの自立。
これにはいろいろなひだがあるのだ。
そんなに一足飛びにできるはずがない。
少しづつ、緩やかに準備していかなければ本当いけない。
それには時間が必要。
子どもも親も「あたらしい生活や環境」を作り出す時間が必要なのだと思う。

母親というのはつくづく馬鹿だなあと思うのだが、どうしても心配になると口に出していってしまう。
おまけに何とかしようと即座に行動にでる。
アルス・ノヴァの親御さんを見ていてもそういう人が結構多い。
ある意味とても行動力がある。

しかしこれは、長年の癖みたいなものだと気が付いた。
つまり私たちは否が応でもそういう環境に常に置かれていたのだ。
常に子供たちの人生、進路、生活から些細なことまで家族(特に母親)がそれを決めてきた。
前例もなく、頼れる人も少ない状況の中で、母親がぱっぱっと決断していくしかない。
自分で変えていくしかない。
その癖がついてしまった。

しかし、今回の重度訪問介護やたけしの自立生活の実験は、そうした親の癖からの解放でもある。
いつまでもいつまでも成人した子供の人生を決めなければいけない、この選択しか与えられてこなかった親の癖、業からの解放なのだ。
私たちは好き好んでやっているのではない。

ほかに選択肢がないから。
決めてくれる人がいなかったから。
そんな環境が与えられるとは想像もできなかったし、こんなに大変なわが子を預けるなんて申しわけないという気持ち・・・・。
そういうものの象徴だったのだと思う。

しかし、そうではない生活が現実化しようとしている。
仲間とともに住み、皆の中で決定していく生活。
誰かが過大に請け負うのでも犠牲になるのでもない生活。
できないことではなくできることを出し合っていく生活・・・。
ならば親は手を放してもいいのだ。



 

たけしの自立生活1~たけし発熱放置事件~

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 2019年10月7日から本格的にたけしの自立生活が始まった。
たけしは「たけし文化センター連尺」3階のシェアハウスに、重度訪問介護というサービスを使って住む。
ここにはゲストハウスも併設していて、ときどきお客さんが泊まりに来たり、アーティストや学生が滞在していたり、最近障害のある人たちが自立の練習としても使っている。
たけしとの23年間の人生を振り返って、3日以上離れたことがない。そして、私が彼の一番の介護者であった。それが私がほとんど介護に入らない生活となった。

常識的に考えればたけしに慣れたヘルパーさんが彼の生活を支えていくのが王道だろう。
しかし、たけしの生活を支えているヘルパーさんたちは、たけしを知らない人たちがほとんどだ。そして入れ代わり立ち代わり入っている。おまけに今年度医療福祉機構から助成をとって、重度知的障害者の自立生活を研究することになった。つまりたけしは研究・実験のモニターになってもらっているのだ。
こんな荒業ができるのも「たけし」だからだ。
久保田翠の息子だと大変な目にあうと本人は思っているかもしれない。
しかし、ここに至るまでには本当に大変な今までの生活がある。
これを打開していくには、だれかが「えい、やっ!」とやるしかないのである。

レッツが運営するアルス・ノヴァが終わった後、ヘルパーさんに引き渡す。それが月曜日から土曜日。日曜日は1日中ヘルパーさんと過ごす。ヘルパー事業所も3事業所が入っている。17時~21時がAかB事業所、21時から次の朝9時までC事業所、9時からアルス・ノヴァ・・。
という生活。たまに実家に帰ったりもするが基本的には3階で生活している。
浜松ではヘルパー事業が発達していない。そのため3つの事業所が関わることとなった。
これはいい面と悪い面がある。
やはり法人が違うから連携ができない。
たけしの切れ目ない支援の中で伝達があまりうまくいかないのは致命的だった。

たけし発熱放置事件
12月初旬、たけしは風邪をひいていた。そのため昼頃に軽く発作が起きた。家だったらそんな日はゆっくりさせる。
しかしここでアルス・ノヴァもたけしを今日は見ていないスタッフが引き渡すことになった。
そして夕方から入ったヘルパーさんはほぼ初めての人だった。
鼻水がずるずる出ていたが元気だったので大丈夫だと思ったのだろう、いつも通り入浴し、寝かせた。

朝は特にヘルパーさんは忙しい。9時までにたけしに朝食を食べさせ、洗濯をし、干し、部屋を片付け、2階に下ろさなければいけない。どうも朝食を食べなかったようであるがそれはいつものこと。そのままアルス・ノヴァに引き渡した。
2階に降りてからたけしはずっと寝ていた(それもいつものこと)

たまたま私が2階に行ってたけしの体を触ってみたら,熱い!これは熱がある。
アルス・ノヴァの体温計はなんと壊れていていくら測っても36度台しかない。そんなはずはない。ちゃんとしたのを買ってきて測ると、なんと39度!
これはまずい。たけしはてんかんがある。
発作が発熱と連動して起こるのだ。壮の発作は厄介だ。その日は急遽自宅に戻った。

自宅に戻るととにかく水を飲ませた。小さい子供もそうだが水分が不足すると熱が出る。1.5リットルぐらい飲んだだろうか。
水を欲していたのだ!(おいおい・・)
熱も下がり、本人も帰ってきたのがうれしくて機嫌がよかった。
それでもご飯は食べれず、早くに寝かせた。次の日、もう熱はなく朝食も取れた。鼻水はあるが大丈夫だろう。
事なきを得た。

これがきっかけとなって、私は急にたけしの自立生活が不安になった。
もちろんアルス・ノヴァの対応もよくはない。
しかし、アルス・ノヴァを含めて4事業所の連携が取れていないことが一番の問題だ。
ヘルパーさんも変わるしアルス・ノヴァの送迎車担当のスタッフからの引継ぎは必ずしも昼間たけしを見ているとは限らない。
そう、引継ぎと一言で言っても難しいのだ。そして、どこかで誰かが察知すればよかったのだが、皆が見落とした。
発見者が私だったということに大きな不安を感じた。
今回発作にならなかったからよかったが、なっていたら・・・。
急に怖くなった。

そこから生まれたのが記録表だった。
とにかく熱や体調を書き込む欄を設けた。これで最低ライン共有はできる。しかし生活というのは細かなことが出てくる。それをだれが責任をもって管理するかは今の体制では無理だということも見えてきた。
スタッフとも話して、たけしばかりではなく、今後シェアハウスやゲストハウスの人たちのケアをしていくためにも何か制度が必要かもしれない。それらを探るため1月からアルス・ノヴァのスタッフが時々夜も常駐することとなった。
今レッツのスタッフが入って様子を見ていくことになった。
新たな実験が始まった。



 

サイトスペシフィックアート~民俗学者 宮本常一に学ぶ~ at市原湖畔美術館

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何年か前から宮本常一の本を読み続けている。もともとフィールドワーク的なものが好きで、学生のころから古い街並や古民家を歩き回っていた。目新しい建物よりも人々の往来がある路地や手あかのついた建物が好きだった。
しかし宮本常一を読み続けているのはそれだけではない。
レッツを行うようにになって、「なんで差別は生まれるのだろう」と考える。明治期から戦後にかけての市井の人々の記録。日本人といわれる人々は何を考え、何を大切に生きてきたのか。そんなことが知りたくて読んでいる。そして多くを学ばせていただいている。(そして悩む)
私にとって宮本常一はとても読みやすい。それは難しい講釈や分析がなく、そこにいる人々の話や事実が淡々と語られている。そこからさまざまなことが夢想できる。

今回レッツもこの展覧会の「サイトペシフィックミュージアム」というコーナーに取りあげていただいた。地に根差し活動している全国のアート関係団体のチラシやポスターが一堂に展示されていた。ありがたいことだ。
また、親交のある中崎透氏や深澤孝史氏もアーティストとして出展しているのも興味深い。またこの美術館を北川フラムさんの会社が運営していることもあり、「なるほど!」と腑に落ちた。

大地の芸術祭を始めとして全国で行われている芸術祭やアートプロジェクト、アートNPOの活動はある意味時代を反映している。いよいよ怪しくなってきたこの国で天災も震災もたくさんおこるこうした時代に、人が人としてその土地に根付き、生きる中で生まれてくる様々な事柄をいち早く顕在化しているのはアートなんだろうということがはっきりしたように思う。
これを何と名付けるかは別としても(サイトスペシフィック・アート?)、確実に広がっているのだということを確信した。
レッツが設立して今年で20年。
北川さんには初期のころから会員さんとしてずっと応援をしていただいているが,あのころに比べれば今、日本のアートは大きく変わったと思う。そして、アートや文化・芸術というのはこうした時代、空気、本髄をいち早くキャッチし社会にとりあえずでも示していくのだと思う。それは物事が硬直化、陳腐化しない一つの力にもなっているだ。

レッツが福祉のフィールでやっていることも、街づくりの視点でやっていることもそうした意味合いがあるのだと思う。それはなかなか認められたり多くの賛同を受けられたりはしないことは前提として今後もやり続けていくのだろう。
なぜやり続けられるのか。それは越えられない壁があるからだけれども。恐ろしく時間がかかることであり、自分たちの生き方とか生活にも根ざしていることだからまあ淡々と日常としてやっていくのだろう。
そんなことがじわっと実感できる出張でした。

そして、やはりここらでレッツは本を一つまとめないといけないです!
やりたい方いませんか~。