切なさのやりとり

カテゴリー │家族


たけし



11月23日朝から24日の午前9時まで、たけしはショートステイを利用した。
私の出張のため、お泊りしてもらった。
迎えに行くとすでに玄関にスタンバイ。ピンポ~ンとともに飛ぶように出てきた。
「何も食べませんでした。水分はなんとか・・。元気でした」
施設の方が済まなそうに伝言。

たけしは施設に行くとご飯を食べない。もともとなんでも食べる人ではないので、気分によって食に響く。家でも、元料理人の父が、たけしの好きなものや今ブームなもの中心にアレンジし、朝から天ぷらが並ぶ食卓を経験しているからか。
施設の食事が美味しくないのではなく好きなものが出ないだけで食べなくなる。
平気で、1泊2日、4食分何も食べないで帰ってくる。
最近は介護用のドリンクをもたせるようにした。90mlで200キロカロリーあって栄養バランスも優れている。これを1食2本のませてもらって、なんとか「劣化」を防いでいる。
しかし、今回は「劣化」が激しい。よく見ると頭に複数のたんこぶ。自傷行為で、壁に打ち付けたか、持っているタッパーで耳の上あたりを叩いたのだろう。
案の定、次の日大きな発作も起こしてしまった。

たけしにとって、なんで預けられているのか、何が起こっているのか、どうして今日はここなのかわからないのだろう。
そして、施設で何があるのか、何にそんなに怒れるのか、なにが嫌なのか、言葉を持たないたけしからは、皆目こちらもわからない・・。

切ないものだ。
察するしかない。
しかし、察するには余りある・・。

たけしにも人生がある。私にも人生がある。
どちらかが過剰に我慢することはできない。
親だから、障害があるから、は、人として何かを犠牲にしている。
お互いが折り合いをつけるにはどうしたらいいのだろう。

そのせめぎあいがまさに私たち家族なんだと思う。
ことばによる「対話」ができないから、想像して、考えて、ちょうどいい落とし所を探っていくしかない。
お互いが健やかに生存していくためには、「切なさをお互いがひきうける」ということが大切なのだと思う。

どちらかが過剰に我慢するのではなく、お互いに相手の切なさを受け入れて、それでも、やりたいことをやるということなのだと思う。

多分、私は、これからも、この切なさのせめぎあいを引き受け、葛藤しながら、たけしとの関係と距離を、微妙に変えながら生きていくのだろう。
そしてこれは、障害があってもなくても、親子というのはおおよそこんな感じなのではないかと思う。