自由について~たけしの脱走から思う

カテゴリー │レッツ家族たけし




自由について~たけしの脱走から思う


自由について

たけしが脱走した。
それは自由への希求のように見える。

たけしの場合、近くに大好きなコンビニがある。そこに何度が介助者といったことがある。そして「いけるかもしれない」「いきたい」という感情の発露によって脱走は敢行されたのだと思う。

反対に、そもそもコンビニを知らなければ「脱走」するなんてことを考えもしないし、「行きたい」という意思も生まれない。

つまり自由っていうのは、それなりの体験や経験、知識に裏打ちされて拡大していくものだと思う。

ジェンダーの問題もそうだ。
私が専業主婦になって味わった「不自由さ」は、それまで性別に区別されることなく生きてい私が、突然、性的分類から派生する義務を課せられた時の不自由さだった。
子育て、障害児の療育において圧倒的に「母親の仕事」となっている事実と、だれも手伝ってはくれない状況による、にっちもさっちもいかない状況。

そこで味わう不自由さや違和感は、最初から専業主婦を志してきた人たちとは共感できなかった。
さらに、「子供のことは母親の役目」と信じている年配者たちにとって、そこへの疑問、異議申し立ては母親として失格であるといった烙印につながる。

自由を手に入れた体験がなければ、その状況に不自由さを感じないし、不満にも思わない。
というのは裏を返せば、知らなければよかったということにもなる。

そしてこの連綿と続いている「知らないほうが幸せ」といった、超、後ろ向きな思考が、障害福祉の中にはあるように思う。
障害者になるべく安全安心な環境を整え、ひたすら穏やかに暮らすことを求める。
脱走することも問題を起こすこともだめなことで、そうした環境がどんどんと積みあがっていく。

知ること、学ぶこと、体験することは人権にも値する。
いろいろな機会が平等に与えられること。
しかしそれは同時にさまざまなリスクもある。
脱走は交通事故にあうかもしれないし、どこかに行ってしまって死に至ることもある。

そこで常に家族や介護者はもやもやする。
そして、そのほとんどは社会側の常識に合わせてしまう。
「人に迷惑をかけてはいけない」からだ。

この言葉はいつも疑問に思う。
迷惑をかける相手はだれなのか。
誰が迷惑だと思うのだろうか。

でもそもそも社会側の価値観が正しいとはとても思えない。
もう少し許しあわなければ、だれも何もできない社会になってしまう。

そしてこれは政治に当てはめればわかるけれど、情報を与えない、自由を与えない、それぞれが監視する社会をつくれば、トップには都合のいい社会になる。

日本は自由が保障される国だと思うけれど、個々においては監視し合うというのか、暗黙のルールが多く存在するし、それからはみ出すことを嫌がる国民性もある。同じ価値観の人たちの同質性から抜け出すことができない。

障害だけの、女性だけの問題ではないと思っている。
だから、たけしたちが本当に自由に生きていく時代は私が生きている間は実現しないのではないかと思えてしまうが、私はどうにかこうにかそこにくさびを打てないのか。
私の力なんてちっぽけで、何にも変わらない自己満足でしかないけれど。

たけしの脱走は、私の自由への希求でもある。
私の、そんなに長くない人生の道しるべでもあるかな。


同じカテゴリー(レッツ)の記事
かしだしたけし考1
かしだしたけし考1(2023-12-24 21:31)

かしだしたけし考2
かしだしたけし考2(2023-12-24 21:28)


 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
自由について~たけしの脱走から思う
    コメント(0)