自由への「闘」走~たけしの脱走から考えた

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自由への「闘」走~たけしの脱走から考えた

自由への「闘」走~たけしの脱走から考えた

〈ヘルパー事業所ULTRAのスタッフの写真を拝借しています〉




 たけしは週末、土曜日の夜に自宅に帰って、月曜日の朝にアルスノヴァに戻る
日曜日もヘルパーさんとお出かけだから実質、自宅を満喫できるのは日曜日の午前だけだ。天気によっては庭に出れなかったり、イベントがあると帰らない週もある。
たまにしか遊べない「実家」である。

最近ここから1.3km離れたコンビニに行けるようになった。それはヘルパーさんと何度か出かけて彼の中に認識ができたのだと思う。
子どものころから空間把握はできる人で、大好きなコンビニはどの地域に住んでも一度行けば大体覚えてしまってひとりで行ける。
しかし困るのは交通ルールが全く頭に入らない。
交通量の多い道路でも平気で横断する。それは死を意味するから、こちらもどうしての自由に出せない。

この自宅時間に、彼の中で冒険のスイッチが最近ONになったようで何度か脱走を試みる。
今まで開いていても見向きもしなかった庭の隙間を探し出し、脱走する。
しかし、今私は一人しかいないから彼の脱走に付き合えない。

だから結局柵をつくることになる。脱走させないために。

しかし、靴も履かず、意気揚々と歩いているたけしの姿は、手に入れた自由を謳歌している青年の姿である。なんとも美しい。

それを、捕獲するのは、まったくもってこちらの都合であり、この大冒険の出鼻をいつもくじいているのかと思うと気が引ける。

そして、本来はこんな柵をつくってはいけないのだと思う。

たけしを見ていると、自由というのは経験に裏打ちされて強固になっていくのだと感じる。
つまり、コンビニがあること、そしてそこに行ったことがあること、なんとなく行けそうな感覚があること。

そうしたいろいろな体験が重なって、たけしは行動に出る!

つまり自由というのは、体験や知識、経験といったものに裏打ちされているのだと思う。
そしてその自由はさらに拡張されていく。

そもそもたけしがこの歳になって脱走を試み始めたのは、シェアハウスでの生活が礎になっている。
街に住みながら、家族では連れていけなかった、コンビニ、スーパー、ゲームセンターといったところにヘルパーさんと毎日のようにお出かけしている。その経験値が自宅でも発動されたのだろう。

つまり彼の「自由」の強度が増しているのである。

障害のある人にも選ぶ権利があると言われる。
しかし、そもそも体験や知らないことに対して「どっちがいい」「何がいい」と聞かれても選ぶことができない。
豊富なトライ&エラーの体験が自由を裏打ちし、それがその人の意思になるのだと、たけしを見ていて感じる。

そしてその自由は環境にも左右される。
自宅の様に手がなければ彼の自由は保障されない。
むしろ「どう奪うか」を考えなければいけなくなる。

私は障害者施設を運営しているから、親以外に施設職員としての立場もある。
では職員はどちら側に立つのか。

ヘルパーのように一対一で対応できるなら可能なことも集団では難しいこともある。
しかし、そうしたなかでも、家族の様に自由を奪わなければ生活が立ちいかなくなるわけではない。
スタッフは彼らとともに確信犯であるべきだ。


柵をつくる私の心は、まったく楽しくはない。
仕方がないとは思いつつもなんか負けたような後ろめたさがある。

それよりも一緒になって確信犯になる。
社会に石を投げるような、自由への暴走を一緒に行う。
そこからどんな体験、生活が展開するのかと一緒にワクワクする。
だから私は飽きもせず、いろんな事やるんだろうな。

自由への逃走。

さらに拡張していくといい。

たけしの脱走の顛末でした。



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