自由への道のり

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知り合いから、高校の文集に寄稿を頼まれた。
高校生が読むらしい。
参考に、卒業生諸氏の文面が添付されていた。
キラキラした学生時代の思い出が散りばめられていた。

当時私はそんなに暗い学生だとは思われなかったと思う。しかし、この時代、本当に何をやってもうまくいかなかった。
そういった自分の暗さ、惨めさを隠して、全く、明るく振る舞っていた。
明るく振る舞うのは、暗くてどうしょうもない自分を自分で認めたくなかったからだと思う。そう振る舞っていくことで、いつかは明るい未来がやってくると必死に信じていたように思う。
そこから私の不自由と混乱は始まったのだろう。

今の高校生が何を考えているのかわからない。
しかし、皆何かに怯え、不安に思っているのではないか。
閉じこもり、じっとしていたいときだってあるだろう。
それでいいのだ。
無理に明るく振る舞うことは、周りを安心させるかもしれないが、自分にタスクを課し、息苦しくなる。
まさに痛々しい。


「 多分、私の周りにいた人たちはそうは思わなかったかもしれないが、私の高校生活は暗かった。何をやってもうまくいかない。進路も、部活も、勉強もまさに八方塞がり。悶々とした日々を送った3年間だった。
1年浪人して東京芸術大学を受けたが入れず、4年後大学院でリベンジした。

その後自分で小さな環境デザイン会社を妹と起こし、結婚し、子どもが生まれた。子育てと仕事の両立に苦労したがなんとか起動に乗ったかと思ったら、2子目で重度の障害児が生まれた。
 障害のあるたけしは今年20歳になる。今でも、食事も排泄も自分でできない。多動で動き回る。1歳の子どもがそのまま大きくなったような状態で今も目が離せない。

 こう書くととても悲惨な生活をしているように思われるかもしれない。しかし、実際、毎日の生活の中でそれが日常になり、その中から喜びや達成感も生まれてくる。
そして、私が本当に「自由」を手に入れたのは、この生活があったからだと実感している。
彼を育てることを通して、いろいろなものを手放すことができた。

 地位や名声、学歴、お金など、それまで培ってきた生き方も、仕事も、正しいと教えられてきた価値観もことごとく彼の前では通用しない。
そんなもの生きる上ではなんにも役に立たないと感じた。
「生きる」ことは実はとてもシンプルだと知った。

誰かを支えること、誰かに支えられること。
それは重度の障害のあるたけしも同じで、支えられている反面、私や、家族や多くの人を支える存在でもある。そうした人と人との関係の中で喜怒哀楽が生まれ、生きている実感を体験するのだと思う。

 16年前、NPO法人を設立し、さまざまな人たちがともに生きる社会を表現活動やアートを通して実現する活動をはじめ、現在、障害福祉施設と誰でも利用できる私設自営の「のヴぁ公民館」も運営している。
自分が自分らしく居ることができる居場所を求めていろいろな人がやってくる。

 何かをなし得ること、目標に向かって努力し、勝ち得ることは素晴らしいことだ。
しかし、常に勝ち続けることはできない。突然病気になることもある、失敗することもある、人から疎まれたり、排除されることだってある。
それでも、とにかく生きていくしかない。

 病気になったり、脱落したり、人々は「弱く」なることを極度に恐れる。
そして強い人に憧れる。
しかし「私が私らしくいる」ことのほうが実は重要なのだ。
それは強さへのあこがれでも、弱さへの嫌悪でもなく、ありのままの自分を受け入れるということなのだと思う。

 苦しい状況にある人は、全く絶望感しか感じられなくなる。そしてそれが永遠に続いてしまうような感覚になる。
しかし、そういう時はそこからさっさと逃げることだ。逃げたところで大したことはない。
自分が壊れるまで頑張らなければいけないことなんてない。
逃げることは、その絶望を味方につけ、また人生が開かれるチャンスにもなる。」


あーしょうもない。


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