まちとアート

レッツ久保田翠

2024年04月30日 12:07



 アートというのは一種の暴力性を帯びている。そしてアートはそれでいいのだ。その主体はアーティストで、アーティストの思いでどう作ってもいいわけで、その作品の評価はそれを体感した人たちがどう感じるか。特に今までにないものが評価される。それは「新しさ」とか、革新性といわれるものだと思う。

 レッツがアートをよりどころにしているのはその革新性に期待していて、つまりは既存の価値観や通念にとらわれない考え方を容認するためにアートをいわば手法のように使っている。
特に障害という一般にはまだまだ認められていない領域に関して、新しい見え方や提案を進めるうえで、このアート的な考え方は非常に有効だと考えている。レッツが福祉事業を行いながら独自のスタンスを維持しているのは、このアートを軸にしていることが大きい。

 街づくりに対しても、普通の人が当たり前に街に何らかのかかわりがあるように(自治会活動、町内会活動、地域の掃除、ゴミ出し、清掃作業などを例にとっても)、障害者だからこそ街にコミットするべきだし、彼らの在り方や生き方をインストールしていきたいと思っている。だから2018年、たけし文化センター連尺町ができてからまちに積極的にかかわらろうとしている。
障害者の場合は向こうから誘ってはくれないから、ならばこちらから積極的にかかわろうと試みる。とはいえ、既存の自治会組織などにはなじまないところも多すぎるので、独自のコミュニティを作り出そうとして最近は活動している。

 ここに至るにはやはり圧倒的な疎外感と、既存のコミュニティへの居心地の悪さもある。
根本的なずれみたいなものがありすぎて、(特に障害という特性がそうさせている)そこは手を変え、品を変え、果敢にいろいろとフックをつくってきた。そしてその道はまだ始まったばかり(やっている年月は長くても成果は簡単に見えない)

 しかしだからと言ってユートピア、楽園をつくりたいのではない。あくまでも一般の人たちと混ざりたいのだ。

 自分たちだけが心地いい空間や環境は作りやすい。
しかしそれはいつまでも孤立しているのと変わらない。
多くの人に接してみない限り、自分たちの姿も見えてこないように思う。

 混ざり合うことはトラブルも生まれるがしかし結局、それが自由を担保するのだと私は思う。
同族性の強い同じ価値観同士のコミュニティはやはり脆弱で、マンネリ化しやすい。
またちょっとした違いを認めにくい環境をあっという間に作り出す。
結局自由が奪われていく。

 私たちの街へのかかわり方は、あくまでもアート的な手法をそこにインストールしているのであって、アート作品として評価されたいとか、認められたいのではなく、ただ単に「仲良くなりたい」だけなのだ。

 こんな単純なことをわざわざアート的な手法を持ち込んでやらないといけないのは実は私たちの問題があるのではなく、いわゆる既存のコミュニティの方にある。
少しの違いを認めない、めんどくさい人を排除する、地縁、血縁が大切で排他的。といった特性に私たちは入っていけない。

混ざり合うコミュニテイをどう作っていけるのか。課題である。



関連記事