重度の障害者の「日常」を晒す意味

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重度の障害者の「日常」を晒す意味



 6月3日、浜松駅南口にあるサザンクロス商店街での路上演劇祭で、「表現未満、実行室」を行なった。
ここ何年かお誘いを受けて毎年参加している。
例年、何かしら、ドラムや楽器を持ち込んで即興演奏を披露したり。それなりの「舞台」を少なからず用意していたように思う。

しかし今年は日曜日ということもあって利用者さんが少なくとくに動きがある人がほとんどいない。スタッフも3人。
3人で話し合っていたみたいだが、「いつもの日常」を行うことになったようだ。

 本番、ぞろぞろと観客が移動してきて、みなさんが座り始めた。
前ぶれれもなく、マットや楽器や机やコップ、お茶などがでてくる。
利用者は好きなところに座って居るし、少しづつ車から荷物が出てくる。
「いつ始まるのですか」と聞かれて、「もう始まっています」と答えるスタッフ。
「え、もう始まっているの」といった感じでスタート。

そんな感じが延々20分続く。
その中でSさんが踊りだしたり、ひたすらブツブツ小さな声で何かの教科書を朗読しているSくんや、「Kくん、お茶飲みな」とお茶をコップに入れて差し出すスタッフ・・。
Oくんは大きな巨体で、でんと真ん中で座っているし、たけしは観客に背を向けてマットの上で石遊び。
本当にいつもの日常。

終わったあと、スタッフから「あれでよかったのか、観客は置いてきぼりなのではないか」など、もやもや感があるみたい。
反省会はこれからなので大いに盛り上がりそうだ。

ふと考えた。
確かに舞台として成立しているかといえばかなり疑問だし、初めて見るお客さんにとっては「ナンノコッチャ?」って感じかもしれない。
しかし私としては昨年より全然安心してみていられた。
なぜだろう。

昨年は土曜日ということもあって利用者スタッフ全員で参加した。
しつらいは同じなのだけれど、一応、演奏やら音楽的なパフォーマンスがあった。
つまり「舞台」としての意識があったということだ。

しかしその中で私は相当ドキドキした。というのも、このダラ~とした、音楽なのかどうかもよくわからないものを「披露」していいのかと。「披露」するならそれなりに作り込まないと。やっている人たちの本気度というのは観客にはすぐわかってしまう。そういう意味でドキドキした。

でも今年はなぜ安心してみていられたかというと、それがいつもの「日常」だからだろう。
路上は我々にとっては日常ではない。
そこで「日常」を演じるわけだ。
いつものマットがあり、机があり、コップがあり、お茶がある。
その中でいつもやっている日常がいとも簡単(のように)にくり広げられた。
それはいつもやっていることだから。

ではなんで「日常」を見せないといけないのか。
それは、
障害者だからだと思う。

巨体のOくんがなにも言わずでんと座っている姿、たけしが(舞台だというのに)背を向けて石遊びしているすがた、Kくんがなにか言っている姿は、一般の人にとって「日常の風景」ではないし、おそらく見たこともない。
「障害者」と言う概念はわかっていても、「知的障害者」が具体的にイメージできる人は少ないだろうし、どんな存在感、空気感を持っているかなんて皆目わからない。
そんな人だらけの世の中で、彼らが「そこにいる」だけで、伝えるものがある。

しかし昔から、見世物小屋というのはあったし、そこで障害者が自分の姿を晒して収入を稼ぐという職業もあった。
そことの境はなんだろうか?

それはこちらの思想と哲学と見せ方の違いだろう。
障害者が自覚しながら自分の身を晒し生活の糧となる金を稼ぐというのは立派な職業だと思う。
アルス・ノヴァの利用者のみなさんにはその自覚はない。
そういう思考を持てないし、そもそも金を稼ぐ、職業という概念がない。

であるならば、彼らが舞台で晒す意味はなにか。
それは、
「障害者の存在を社会化することによって社会自体を変えていく」
というミッションを達成するため。
そこに協力してもらっている。参画してもらっているという方がしっくりくる。

 社会化したいのは誰かといえば、レッツであり、私であり、彼らが本当にそれをしたいのかどうかは実はわからない。
しかし、彼らの存在自体が人々の価値観を変えていくインパクトがあると私は思っている。
つまり、重度の知的障害者は社会のお荷物ではなく、ソーシャル・インクルージョンを起こす重要な一員なのだ。

最近「一億総活躍社会」なんていう怪しいことばができてしまって、とても言いづらくなってしまったが、人権とか平等の概念から、その人がその人らしく、人として認められて生きていくには、何かしら社会との接点と役割は必要だと思う。

 重度の知的障害者のその存在を多くの人たちが知る機会がなく、どんな人かもよくわからない。
そんな中で彼らの人権や権利や役割を訴えても、リアルに感じてもらえない。
そこは圧倒的に足りていないと思う。
だから、社会化していく方法の1つとして、この舞台もある。

芸術として、作品としてよりも、いかに、彼らの存在を、彼らの最も優れた資質である、おおらかさや伸びやかさとともに、示していくにはどうしたらいいのか。
日々、試行錯誤。


そしていつの日か、こんなことしなくても、いい時代が来るといいなと。
私が生きている間にそんな時代がやってくるかわからないが。



































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