2017年06月18日18:21
今日は日曜日。
日曜日が心踊らなくなってからどのくらい年月がたったのだろうか。
日曜日は一週間のうちで一番忙しい。
掃除、洗濯、そしてたけしがいる。
今日は朝から頭が痛かった。ユックリ寝ていたいが、そうもいかない。
旦那がご飯を作ってくれて、食べさせてくれたけれど、ここからさきは、決して安定感のある人ではないので結局喧嘩になるだろう。ならば起きたほうがまだマシ。そして起きて、たけしのトイレ、片付け、うんちを漏らして、風呂に入れ・・と追われて今の時間。
たけしは21才。
思えばこの人が生まれてから、心休まる日曜日がどれだけあったか。
最近、こちらの体力の低下は著しい。
連れ出すのが億劫になってきた現実。
彼は何よりも、家は好きだと思うが、親といることがそれほど楽しそうには思えなくなった。
たけしは月曜日から土曜日までアルス・ノヴァに通っている。
スタッフや、関係者や、お客サンと接している彼は、とても生き生きとしている。
10代とは明らかに違ってきたのは、そういう人たちに囲まれて、自分の居場所というか、社会ができてくるということ。
それは同時に彼に自信ももたらしてくれていると感じる。
障害区分6,強度行動障害の、最重度と言われる知的障害のたけしがそんなことができるとは正直思わなかった。
何処かに重度のたけしが親から離れるのは、親の体力の限界など親側の都合だろうと想像していた。
しかし現実は違う。
いくら重度の障害があっでも親から自立する時期は、普通の健常の青年と同じなのだ!
そんな事が書いてある本も文献も見たことはないが、これは長年生活している親だから感じる、勘といったものだから、ある意味正しいだろう。
となると、たけしが親元離れて生活できる場所が必要だ。
それは施設入所か、グループホームと言われている。
しかし、時々入所施設のショートステイを利用しているが、たけしはこれが本当に合わない。
アルス・ノヴァの利用者の中には喜んで通っている人もいるのに。
場所見知りがひどい、好き嫌いがはっきりしている。反面、環境性(なんでも受け入れると言った寛容性)が低いという、まあ障害の特質みたいなものがある。
そこは親は百も承知だから、彼のもっとも愛する「音楽」で、アルス・ノヴァでの生活は構成されているし、ヘルパーさんも音楽の素養のある人にお願いする・・・など、チョ~至れり尽くせりな環境を用意されている。
(誤解がないように申し上げておくが、これはたけしに限ったことではなく、「本人たちのやりたいことをやる」環境を100%に近く叶えようとするのが、レッツの運営するアルス・ノヴァのモットーだ)
そんな彼の「住むところ」とはどんな場所なのか・・。
最近レッツでは、重度の障害のある人の施設を浜松市の中心街に作れないかと考えている。
中心市街地に重度の人たちの施設はそもそもあわないと思われている。
そこで、今年1月~2月に「表現未満、実験室」で実験して、確信を持ったのだ。
彼らはその個性の強さから、街だろうが、田舎だろうがほとんど同じ生活パターンを崩すことがない。
そして人が嫌いなわけではなく、人と接することが苦手でもない。むしろ人が好きな人が多い。(これは重度の知的障害の人の言説とかなり違う)
そして、いつもとかわらない彼らの佇まいは、街や人に与えるインパクトは計り知れない。そしてそれが、重度の人たちの社会にできること、役割、シゴトなのではないかと考えている。
たけしの今までの人生を見ていて思うことは、本人はほとんどやりたいことしかやらない、問題行為満載の人だと言われるのだが、こんなにも多くの人たちの気持ちを変え、スタッフを変え、ものごとを動かす人を(自分を何もやらずに)私は見たことがない。
そして同じような上級者揃いがアルス・ノヴァだ。
この人達の居住を考えたときも、ただ単に「障がい者」として囲ってしまうのはあまりにももったいない。
もっとオープンにしてしまったらどうか。
言葉は悪いが、私は彼らを社会に晒す(出す)べきだと思っている。
それはそこに来た人たちが、違和感や、好き、嫌い、といった感覚も含めて「そういう人がいる」事実や、彼らのふるまいからいろいろなことを感じる機会となるだろう。
それは、彼らを理解することの始まりだし、多様性はこうして考えられるではないかと思っている。
一つは、彼らの住まいとともに、一般の人のゲストハウスがあるのはどうだろう?
毎日、彼らと生活するのはしんどいだろうけれど、たまに、観光で訪れるのはどうか?など・・・。
人と出会いやすい、交通の便のいいのが街の特徴だ。
それを利用して、思いっきり、明るく、楽しそうに、重度の障害の人のことを知ってもらう場所をつくってみたいと、また妄想が始まっている。
重度の障害者・たけしの自立と住居≫
今日は日曜日。
日曜日が心踊らなくなってからどのくらい年月がたったのだろうか。
日曜日は一週間のうちで一番忙しい。
掃除、洗濯、そしてたけしがいる。
今日は朝から頭が痛かった。ユックリ寝ていたいが、そうもいかない。
旦那がご飯を作ってくれて、食べさせてくれたけれど、ここからさきは、決して安定感のある人ではないので結局喧嘩になるだろう。ならば起きたほうがまだマシ。そして起きて、たけしのトイレ、片付け、うんちを漏らして、風呂に入れ・・と追われて今の時間。
たけしは21才。
思えばこの人が生まれてから、心休まる日曜日がどれだけあったか。
最近、こちらの体力の低下は著しい。
連れ出すのが億劫になってきた現実。
彼は何よりも、家は好きだと思うが、親といることがそれほど楽しそうには思えなくなった。
たけしは月曜日から土曜日までアルス・ノヴァに通っている。
スタッフや、関係者や、お客サンと接している彼は、とても生き生きとしている。
10代とは明らかに違ってきたのは、そういう人たちに囲まれて、自分の居場所というか、社会ができてくるということ。
それは同時に彼に自信ももたらしてくれていると感じる。
障害区分6,強度行動障害の、最重度と言われる知的障害のたけしがそんなことができるとは正直思わなかった。
何処かに重度のたけしが親から離れるのは、親の体力の限界など親側の都合だろうと想像していた。
しかし現実は違う。
いくら重度の障害があっでも親から自立する時期は、普通の健常の青年と同じなのだ!
そんな事が書いてある本も文献も見たことはないが、これは長年生活している親だから感じる、勘といったものだから、ある意味正しいだろう。
となると、たけしが親元離れて生活できる場所が必要だ。
それは施設入所か、グループホームと言われている。
しかし、時々入所施設のショートステイを利用しているが、たけしはこれが本当に合わない。
アルス・ノヴァの利用者の中には喜んで通っている人もいるのに。
場所見知りがひどい、好き嫌いがはっきりしている。反面、環境性(なんでも受け入れると言った寛容性)が低いという、まあ障害の特質みたいなものがある。
そこは親は百も承知だから、彼のもっとも愛する「音楽」で、アルス・ノヴァでの生活は構成されているし、ヘルパーさんも音楽の素養のある人にお願いする・・・など、チョ~至れり尽くせりな環境を用意されている。
(誤解がないように申し上げておくが、これはたけしに限ったことではなく、「本人たちのやりたいことをやる」環境を100%に近く叶えようとするのが、レッツの運営するアルス・ノヴァのモットーだ)
そんな彼の「住むところ」とはどんな場所なのか・・。
最近レッツでは、重度の障害のある人の施設を浜松市の中心街に作れないかと考えている。
中心市街地に重度の人たちの施設はそもそもあわないと思われている。
そこで、今年1月~2月に「表現未満、実験室」で実験して、確信を持ったのだ。
彼らはその個性の強さから、街だろうが、田舎だろうがほとんど同じ生活パターンを崩すことがない。
そして人が嫌いなわけではなく、人と接することが苦手でもない。むしろ人が好きな人が多い。(これは重度の知的障害の人の言説とかなり違う)
そして、いつもとかわらない彼らの佇まいは、街や人に与えるインパクトは計り知れない。そしてそれが、重度の人たちの社会にできること、役割、シゴトなのではないかと考えている。
たけしの今までの人生を見ていて思うことは、本人はほとんどやりたいことしかやらない、問題行為満載の人だと言われるのだが、こんなにも多くの人たちの気持ちを変え、スタッフを変え、ものごとを動かす人を(自分を何もやらずに)私は見たことがない。
そして同じような上級者揃いがアルス・ノヴァだ。
この人達の居住を考えたときも、ただ単に「障がい者」として囲ってしまうのはあまりにももったいない。
もっとオープンにしてしまったらどうか。
言葉は悪いが、私は彼らを社会に晒す(出す)べきだと思っている。
それはそこに来た人たちが、違和感や、好き、嫌い、といった感覚も含めて「そういう人がいる」事実や、彼らのふるまいからいろいろなことを感じる機会となるだろう。
それは、彼らを理解することの始まりだし、多様性はこうして考えられるではないかと思っている。
一つは、彼らの住まいとともに、一般の人のゲストハウスがあるのはどうだろう?
毎日、彼らと生活するのはしんどいだろうけれど、たまに、観光で訪れるのはどうか?など・・・。
人と出会いやすい、交通の便のいいのが街の特徴だ。
それを利用して、思いっきり、明るく、楽しそうに、重度の障害の人のことを知ってもらう場所をつくってみたいと、また妄想が始まっている。