絶望について考えた

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絶望について考えた


人生には八方塞がりの時期ってある。
私の今までの人生にも何度かあった。
何をやってもうまくいかない時期。
努力していないわけでもないのに。
それは病気や怪我と重なっていることも多いのではないかと思う。

私は高校1年で膝を壊した。いい医者に巡り会えなくて、運動ができなくなった。日常生活は問題ないのだけれど、体育で少しでも膝をひねると歩けなくなる。だからろくに運動ができない。3年間体育はほとんど休んでいた。
私は美術と体育が得意だった。特に陸上が好きだった。中学があまり部活に熱心ではない学校だったので、高校になったら一度ちゃんと陸上に打ち込みたいと思っていた矢先に壊した。
本当に失望した。
友人たちは、「マラソンしなくていいなあ」など羨ましがった。しかしそのマラソンがもっともやりたいことだった。

はつらつと走っている友人、先輩の姿を見ているのは辛かった。仕方がなく、美術部に移籍した。
美術部は最低だった。幽霊部で、やりたい人が入ってくる場所ではない。講釈ばかり立派なうるさい男子か、内気でほとんどしゃべらない男子しかいない。女子は一人もいなくて、部活の体をなしていなかった。私の居場所にはならなかった。
もともと徒党を組むのが苦手だったので一人でいるのは苦にならない。
でも友人たちが、放課後、青春している姿を見ていると、本当に羨ましかった。

他に道はなく、高1から、芸大進学に向けて外部のアトリエに通っていた。学校が終わるとそのままアトリエに行き、デッサンなどして帰る。しかし、何故かあんなに好きだった絵が嫌いになってくる。デッサンはつまらない。だんだんと絵が描けなくなった。
キャンパスの前で、ポロポロ涙だけが流れる時期もあった。

 学校生活は、生徒会、イベント企画などいろいろある。それらに情熱を燃やした。部活にはいっている学生と違ってこちらには時間がたくさんある。先輩や後輩との共同作業は本当に楽しかった。
時間があるのはありがたく一人でいろいろなところに出かけた。お年玉や父の事務所の掃除をして得たバイト代で、東京の展覧会に行ったり、観劇した。
国立西洋美術館で開かれた佐伯祐三展は、8時間美術館にいた。人間が持つ想像力の豊かさにほんとうに感激した。絵描きになりたいとは思わなかったが、何かを作り出す仕事につきたいと思った。

何をやってもうまくいかない。そういうのを青春というのだと思う。
1年浪人して第一志望校ではなかったが大学に入れて、本当に命拾いした。

私はほぼ高校、浪人と4年間、何かを犠牲にした。
そして気がついたことは、自分の無力さと才能の無さと皆と一緒のことができない生きづらさだった。
しかし認めたくない。だからその後大学で死ぬほど頑張った。
4年間と大学院2年間は、それでも好きなことのできる大学だったから、できることはなんでもやった。そして、やっと人並みに認められた。プライドの回復。
これで社会人になれる。

その後、妹と独立した。
ちょうどバブルの時だった。設計事務所を運営している父は、この時期危機だった。所員がバタバタとやめていく。景気が良くて皆独立する。不動産も買ってしまって、借金もある。その返済要員に組み込まれた。
父の事務所とは別に事務所をつくり、とにかく稼がないといけない。
時代は猫の手も借りたい。若い女性2人の会社ということ、環境デザインという新しい分野ということで注目された。仕事も順調に舞い込み、寝る以外仕事をした。
仕事は楽しかった。
でも心の何処かに隙間風が吹いた。
その時に結婚した。

ここからが試練のはじまりだった。
夫の病気。
1年後に長女の出産。
子どもを育てることがこんなに大変とは。

目の前に突然赤ん坊が現れて、とにかく世話をしないといけない。長女は小さいときからとても感のいい子だった。
子育てに向き合わない、いつでも仕事に逃げようとする母を見過ごさない。
2ヶ月にしてミルクを飲まないという強行手段に出る。そして1日中泣き続ける。
これには参った。おっぱいが出る母親は私しかいない。
家族会議を開き、仕事を無理やり妹に押し付け、1年間休むことにした。
とにかく、長女に向き合った。
怠けて出なくなっているおっぱいを産婆さんにも通ってマッサージして、なんとか出るようにした。
そしてはじめて、ド~ンとして、何があっても動じない、そいういうたくましさがないと子供は育たないのだということを悟った。

母になる。
それは何となくなれるものでは私はなかった。
いままでの仕事へのプライドも、情熱も、自分のアイデンティティーも、一度棚上げにして、「この子のために生きる」覚悟をしないと育たなかった。
もちろんもっと器用に、当たり前に、通り過ぎれる人も多くいると思う。
しかし私はできなかった。どうしてかわからないが、いろいろなことがすんなり進まず、いろいろなものをまたもや捨てないと次に進めなかった。

長女の教訓があったから2子目のたけしのときには準備万端。保育園も決め、1年バッチリ休めるようにして産休にはいった。
ところが出てきたのはたけしだった。
口唇口蓋裂で1年半で3回の手術がった。口に障害があるからおっぱいも飲めない、ミルクも難しい。搾乳して1回の授乳に2時間3時間かかった。本人も母もヘトヘト。
それでもたけしは「飲みたい」という意欲があった。
わたしもそこに答えたいと思った。

胃にチューブを繋いで流し込むやり方がある。
これは楽だし、たけしも満足できる。
でも1日中チューブを鼻から入れていなければいけないし、抜けてしまうと自分で入れることができない。
面倒でやめた。
今思えばそうしなくてよかった。
体は大きくならなかったが、本人の「こうしたい」という意欲は削がれなかったように思う。
また多分、それをやっていたら口からものを食べなくなっていたかもしれない。

たけしは手術もあったが、重度の知的障害で成長も遅く、体が弱かった。
風邪をひく、薬を飲む、お腹を下す、薬を飲む、体力がなくなって中耳炎になる、また薬を飲む、風邪をひく・・・。医者に行くのが切れなかった。何やっているんだろうと思った。
ある時耳鼻科の先生に「聞こえているかどうかお母さん本当にわかりますか?」と聞かれた。本当にそうだ。
中耳炎になって難聴になったらどうしようとばかり考えていたけれどなるかどうかなんてわからない。
もうやめよう。
お医者通いを一切やめた。そうしたら元気になった。

言葉で書くとあっという間だけれど、3年近くそんな日々が続いた。
専業主婦になっていた。

姉が幼稚園や学校から帰ってくる時に「おかえり」と言える環境。
家でお誕生日会したり、パーティーしたり、家もピカピカにして、ご飯もいろんなものに挑戦した。
専業主婦の偉大さを噛み締めた。
家を守るって大変。ひと仕事だ。子供を育てるのも。
以外に自分にあっていて楽しめた。

しかし辛いのは、自分の存在がなくなっていくことだった。
「〇〇ちゃんのお母さん」でしかない。自分の話は一切できない。
幼稚園バスで会うお母さん、PTAのお母さんたちは、自分の話はしない。
何をしてきたか、何に興味があるのか。誰も聞いてこないし、話しても興味を持たれない。「わたし」は関係ないのだ。
これには参った。またしてもアイデンティれィーが揺らぐ。
そしてだんだんと自身がなくなってくる。
ふと気がつくと、今日誰とも喋っていない、なんてことも多かった。
そして誰にも会いたくないと思うようにもなった。

子育ての孤独。一種の引きこもり。たけしに障害があったから余計そうなったのかもしれない。
たけしと自分の居場所が欲しかった。自己を実現できる場所。「わたし」がちゃんと存在する場所。それがレッツだったと思う。

絶望は、死にたくなることとイコールではないのではないかと思う。
「自分が消えていく」「今までやってきたことが、ことごとく、覆される」
そしてどう進んでいいか、どうにもこうにもわからなくなる。
そういう経験も絶望感を呼び起こす。

そしてそこから立ち直るには、何かを捨てるしかない。
自分のプライドをまず捨て、アイデンティティーを作り直す。
簡単ではない。

しかし一つ学習した。
何かを捨てることは悪くない。
そして捨てることを恐れない。
次の人生が待っていることを経験から学んだ。
そんなにひどいことにもならないこともわかった。
自分さえ変われば、考えかたを変えれば、生きながらえる。

まあわたしの絶望なんて大したことはないのだと思う。
世の中にはもっと大変な思いをしているひとはたくさんいる。

災難は誰でも突然襲いかかる。わたしが突然障害児の母親になったのも自分から望んだことではない。
あした交通事故にあって、半身不随になることだってある。

身に起こった災難を悔いても仕方がない。
問題は解決なんかしない。あした起きたらたけしが健常児になっているなんてことは起こらないのと同じだ。
元に戻そうとすればするほど辛くなる。
どう受け止めて付き合うか。
そこに想像力が生まれる。そしてそれを「智慧」とも言うそうだ。




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